弟子屈における温泉宿の始まり

現在の弟子屈町は、農業と観光の町であると謳っています。観光資源の一つには温泉があり、多くの観光客で賑わっています。この記事では、どのようにして弟子屈町が温泉で栄えるようになったかを解説します。

本山旅館

戦前の本山旅館(釧路川水運)

昭和56(1981)の摩周パークホテル(1980改称)

 

現在摩周パークホテルは廃業され、そのホテル跡が佇んでいます。しかしこの地こそが弟子屈に初めて和人として定住した本山七右衛門が、温泉宿の経営を始めた場所なのです。

本山氏は明治16年(1883)に狩猟を兼ねて夏だけ住む温泉宿を作ります。しかし標茶で釧路集治監の建設が始まったことを受けて宿が忙しくなります。そのため明治18年(1885)に移住し本格的な営業を開始します。こうして本山七右衛門が弟子屈の最初の和人定住者となったのです。

本山七右衛門の移住の動機として釧路集治監の建設があげられますが、その囚人の任務には硫黄山の採掘がありました。硫黄山は明治10年(1877)から採鉱が始まりますが、明治19年(1886)から囚人たちは採掘に従事させられたのです。硫黄採掘は過酷であり、噴出する蒸気と亜硫酸ガスによって囚人は眼疾と失明の苦にさらされます。そのため、後には製錬した硫黄の運搬や標茶製錬所での労働、鉱山鉄道敷設作業などに使役されることとなりました。
 

旧商工会前の神の湯堂

神の湯堂前の説明書き

硫黄山

噴出する蒸気

丸米旅館

戦前の丸米旅館

昭和56(1981)のホテル丸米(1979改称)

 

現在ホテル丸米は廃業されており、その建物跡が残っています。しかしホテル丸米の前身の丸米旅館は弟子屈第二の旅館なのです。

弟子屈人第一号は明治18年(1885)から定住した本山七右衛門ですが、この本山氏に続いて明治19年(1886)に旅館を建てたのが福山ウメです。丸米旅館は翌年には土沼寅吉に引き継がれました。

福山ウメは標茶から移住し料亭「大平」の主:山崎兵七の資金援助によって旅館を経営しました。ですが経営難によって土沼寅吉の手に渡ったのです。土沼は新潟県人であり明治18-19年(1885-1886)頃測量助手として標茶に来て、明治20年(1887)に弟子屈に入りました。

釧路川の湿地に出来た本山旅館と丸米旅館が旅客の足を止めるようになります。弟子屈が世に認められるようになったきっかけでした。明治19年(1886)7月には東大医学部のお雇教師の独人ドクトル=スクリバーも来遊しています。
 

丸米旅館看板

参考文献

更科源藏編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1949
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1981
弟子屈町商工会編『弟子屈町商工のあゆみ』弟子屈町商工会、1981
弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」』弟子屈町、2004

この記事に関するお問い合わせ先
弟子屈町教育委員会 社会教育課

〒088-3211
北海道川上郡弟子屈町中央2丁目3番2号
電話番号:015-482-2948 ファクス:015-482-2343

更新日:2023年09月08日