硫黄山の歴史

本町の近現代史は硫黄山開発から始まるとも言われています。明治9年(1876)に佐野孫右衛門が硫黄山の試掘を得て3カ月間実施し、翌明治10年(1877)から硫黄山の採掘がはじまりました。経営の主導権は佐野孫右衛門、山田慎、安田善次郎に移り変わり、明治29年(1896)には休鉱となりましたが、硫黄の運輸により釧路地方のインフラ整備が進みました。この記事では弟子屈町における硫黄山の歴史を解説します。

硫黄山開発の始まり~釧路の漁場持・佐野孫右衛門~

近世江戸期、蝦夷地への和人の進出が進みましたが、それは沿岸部に限られており、内陸部にある弟子屈は明治時代になるまで深い原生林に覆われていました。道東の本格的な内陸開発は弟子屈の硫黄山から始まります。

硫黄山の発見は諸説ありますが明治5年(1872)に釧路の漁場持・佐野孫右衛門が手代に命じて調査をしたとされています。佐野氏は明治9年(1876)に試掘許可を受けて開発に着手、翌年から本格的操業に入ります。

佐野氏は硫黄運搬のため道路開削や舟運を整備します。馬400頭を移入すると毎日300頭を使役し100頭ずつ交代で休ませるという方法で跡佐登から標茶までを陸路で運びました。標茶から釧路までは船を使って硫黄を運びました。

山田慎の硫黄山経営~囚人労働の悲劇~

佐野氏の硫黄山経営は行き詰まり、明治18年(1885)に経営権を山田慎に渡します。山田氏は標茶に開庁した釧路集治監の囚人を採掘に動員したため、亜硫酸ガスや粉末による失明や眼疾の悲劇を生みました。

 

安田財閥の近代的な硫黄山経営

明治20年(1887)、山田氏の硫黄山開発もまた経営難となり、その主導権は安田善次郎に移ります。安田氏は跡佐登~標茶間に硫黄運搬鉄道を開通させ、標茶には蒸気製煉所を作り経営の近代化に努めます。

北海道の最初の鉄道は官営幌内鉄道です。明治13年(1880)に手宮-札幌間が、明治15年(1882)には札幌-幌内間が開通します。これらを一つの鉄道として見た場合、明治20年(1887)の安田氏による鉱物運搬鉄道は北海道で二番目の鉄道と言えるでしょう。

安田氏の鉄道は当初乗客を取扱いませんでした。しかし明治25年(1892)6月に内務省から釧路鉄道会社の設立と標茶~跡佐登間の鉄道運輸業が認められます。9月には鉄道庁からも運輸開業が許可されました。

明治29年(1896)安田氏は硫黄を掘り尽くし、山田氏への貸付も回収したことから硫黄採掘事業を休止、鉄道も休業となります。その後、細々と採掘は続きますが昭和38年(1963)の野村硫黄砿業所閉山を最後に硫黄採掘の歴史は幕を閉じました。

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資史料

明治20年(1887) 11月25日 鉄道敷設完了

明治25年(1892) 6月21日 内務省より鉄道敷設免許状下付

明治25年(1892) 9月1日 鉄道庁より鉄道運輸開業免許状下付

参考文献

『官報』1240号、1888年3月28日
『官報』2700号、1892年6月29日
『官報』2759号、1892年9月6日
更科源藏編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1949
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1981
弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」』弟子屈町、2004
弟子屈町ほか編『郷土学習シリーズ7 川湯』弟子屈町教育委員会、2012

この記事に関するお問い合わせ先
弟子屈町教育委員会 社会教育課

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更新日:2023年09月08日