安田鉱山鉄道跡を歩く

この記事では、2023年6月に川湯ビジターセンターの協力の下で行われた公民館講座に基づき、安田鉱山鉄道跡について解説します。

青葉トンネル

明治20年(1887)~明治29年(1896)安田財閥により硫黄山において鉱山鉄道が運営されていました。レールは撤去されてしまいましたが現在もその路線跡は残っています。この路線跡は森が生い茂る中を散策することができるため「青葉トンネル」として親しまれています。今回はこの鉱山鉄道跡の様子をレポートします。

硫黄山精錬所跡

この行事ではまず初めに硫黄山精錬所跡に行きました。ここでは精錬所の遠景を映した写真絵葉書と現在の写真を対比しながらその位置を割り出しました!

跡地には現在もレンガや石炭の残渣が残っており「ヅクかまど」で硫黄製錬が行われていたことを実感できました。また明治28年頃に撮影したとされる木造の橋の上でトロッコを引く工夫を写した写真の場所の同定も行われ参加者は目を輝かせていました。

安田鉱山鉄道跡を歩く

鉱山鉄道と更科家

精錬所の跡地を見た後は、いよいよ鉱山鉄道跡を歩きます。旧アトサヌプリ駅から旧ポンチクワッカ駅までの一部を歩くルートです。勿論レールなどは取り外されていますが、盛り土が通路のように延びており、木々に囲まれたことから青葉トンネルと称されています。

硫黄山の鉄道建設には幌内鉄道に携わっていた更科鉄太郎が呼ばれました。また鉄太郎を頼って弟の治郎が熊牛に入地することになります。この更科治郎こそが弟子屈農民第一号となったのです。また治郎の息子の更科源藏は詩やアイヌ研究で著名な文学者となります。

硫黄山と釧路の発展

鉱山鉄道は明治25年に釧路鉄道になり旅客も扱うようになります。標茶からの舟運は蒸気船となり,燃料の石炭を採掘するため,釧路では春採炭鉱が栄えます.釧路港は特別輸出港になり海外輸出が認められます.このように標茶や釧路等の釧路川流域の発展は硫黄山と深い関係があるのです。

硫黄山と囚人労働

硫黄山の発展の陰には囚人の悲劇があります。釧路集治監ができるとウノシコイチャルシベ駅周辺に外役所が作られ採掘に動員されます。亜硫酸ガスにより失明を招いたり,看守が意識朦朧となり囚人を切り捨てたりしました。これを受け典獄の大井上輝前は囚人の硫黄採掘を中止させます。

硫黄山と馬

釧路集治監が網走に移ると標茶は急速に寂れました。その後,跡地には軍馬補充部が設置され,標茶は馬の町として発展します。ロシアや満州に備え寒さに強い馬が育成されました。こうした馬産の背景には佐野孫右衛門が硫黄運搬に馬を導入したことがありました。

繁栄の残滓

硫黄鉱山鉄道を歩いていくと神社に辿り着きました。荒廃した社殿、灯篭の残骸、参道と思しき跡などが残っています。神社の東側にはかつてグラウンドがあり、近くの宿舎に住んだ従業員や家族により運動会が行われた際に撮られた集合写真が残っていました。

硫黄山は明治29(1896)に安田財閥により旧鉱とされました。その後は他社により細々と採掘が続けられていきます。戦時中,一時中断されますが,戦後は昭和26(1951)に野村硫黄硫黄砿業により事業が再開され、川湯駅前小学校の在籍児童は200名に近づくほどでした。

植生観察

自然散策では植生観察も行われました。噴気孔の影響を受けて、山麓の植生が歩いて行くうちに変化していく面白さを味わえました。硫黄山は火山性ガスと強酸性土壌のため高山性植物が生えています。イソツツジ・ハイマツ・ガンコウラン・ハナゴケが低地で見られる珍しい植生です。

鉄道跡を歩いていくと硫黄山の影響は薄れ、シラカンバ、ミズナラ、ゴゼンタチバナが見られるようになります。人間の開発が入った後で文明が廃れ、そこから植物が再生した様子が印象的でした。伐採後の切り株からもう一度芽が出る萌芽更新は自然の営みを感じさせました。

参考文献

<書籍>
更科源藏編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1949
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1981
弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」』弟子屈町、2004
弟子屈町ほか編『郷土学習シリーズ7 川湯』弟子屈町教育委員会、2012

<協力>
川湯ビジターセンター 安藤氏
川湯ビジターセンター 片瀬氏

この記事に関するお問い合わせ先
弟子屈町教育委員会 社会教育課

〒088-3211
北海道川上郡弟子屈町中央2丁目3番2号
電話番号:015-482-2948 ファクス:015-482-2343

更新日:2023年09月08日