弟子屈町「川湯」地域の歴史

ここでは弟子屈町の川湯地域の歴史を解説します。川湯は大正時代末まで旅館が1軒しかなく、昭和になってから温泉街と栄え始めました。

1.川湯の黎明

1-1.硫黄山開発と温泉宿の始まり

明治18年(1885)に釧路集治監が設置されると硫黄山の盛業により川湯でも温泉が開業します。それが明治19年(1886)に高橋貞蔵が始めた料理店を兼ねた温泉宿です。しかし高橋氏の宿は硫黄山の人夫の賭博場と化して荒廃し空家となってしまいました。

釧路集治監

1-2.囚人道路

明治21年(1888)に第2代道庁長官に就任した永山武四郎は中央道路を計画。釧路国管内の道路は釧路-標茶間の開通路に硫黄搬出道路を繋ぎ、更に硫黄山-網走間を開さくするものでした。硫黄山-網走間は明治23年(1890)8月に着工し11月に完成させる突貫工事であり多くの囚人が使役され苦難にさらされました。

囚人道路

1-3.駅逓制度

明治23年(1890)6月、硫黄山-網走間の道路計画に伴い,弟子屈と硫黄山に駅逓所が開設されたと町史にあります。駅逓制度は旅人の宿泊や次の駅逓所までの人馬継立(荷物を運ぶ人や馬を貸出す)を業務としていました。硫黄山では造酒屋の若山敬蔵が取扱人となり,休鉱となると今泉駒造に譲渡されました。

1-4.黒滝初太郎の助け小屋

明治23年(1890)、釧北国境方面の道路が開通し,斜里方面から湯治者が来るようになります。彼らは高橋貞蔵が放棄した空家を使ったのですが、硫黄山休鉱後には使用に耐えなくなりなります。そこで木材王国の先駆者:黒滝初太郎が湯治者のための助け小屋を作りましたが、それは寂寞としたものでした。

黒滝初太郎

1-5.川湯温泉の元祖~浅野清次~

町史などで川湯温泉の元祖とされるのは浅野清次です。浅野氏は明光社のマッチ軸木材伐り出しのために屈斜路に入った人物で明治31年(1898)には仁伏に温泉を開いていました。記念誌「川湯の開拓」(1976)では、浅野氏は明治36年(1903)8月に川湯に入ったとされています。浅野氏は人気の無かった川湯に温泉宿を開き、昭和年代の開発期まで川湯温泉の主として守り通しました。

浅野清次の川湯屋旅館

1-6.遅れる川湯の集落形成

明治33年(1900)美留和-川湯入口間の道路が開通すると川湯で造材が行われるようになります。しかし定住者はほぼおりませんでした。前述の浅野氏以外は,農場地開拓を試みた麻生蕃春,明治末に木材事業の傍ら20町歩の開拓をした三浦末松がいましたが,奥地のため営農集落の形成は遅れていました。
 

麻生蕃春

1-7.五月女十次郎の入植

川湯は大正時代に入っても商工業定住者は浅野清次の旅館のみでした。しかし浅野氏に後継ぎができます。それが大正7年(1918)に川湯に入った五月女十次郎です。五月女は静岡沼津出身で漆器の行商をしていましたが、大正9年(1920)の大水で帰れなくなり,そのまま居残り浅野氏の養子になったのでした。
 

五月女十次郎

2.川湯の勃興

2-1.川湯地域の賑わいの始まり~国立公園候補地~

川湯地域は大正末期までたった1軒の温泉宿があるだけでした。その宿が明治36年(1903)8月に川湯に入った浅野清次の川湯屋(後の五月女旅館)です。川湯温泉がにわかに賑わい始めたのは大正末期であり、その理由は阿寒が国立公園の候補地になったことでした。
 

阿寒が国立公園の候補となった頃の川湯

2-2.田村剛と国立公園の調査

大正9年(1920)8月5日、内務省衛生局保健課長湯沢三千男は公園行政を進めるため田村剛を嘱託に任命します。田村は大正10年(1921)6月8日の上高地調査を皮切りに国立公園候補地の調査を開始しました。この頃阿寒も候補地の一つとして名が挙がるようになりました。
 

2-3.世間における川湯への注目

大正12年(1923)、第46回帝国議会における内務省横山助成衛生局長の答弁で、国立公園16調査地の名称が明らかになりました。阿寒もこの16調査地に入っていたため、川湯もまた一躍注目を浴びます。昭和2年(1927)には世間が川湯の将来性について騒ぎ始めました。
 

川湯に殺到する土地ブローカー

2-4.釧路支庁の川湯土地分譲

昭和2年(1927)、下図の釧路新聞の記事のように川湯の土地は釧路支庁により区割りして売り出されます。この分譲では土地取得後、2~3年の間に家を建てなければ没収されてしまいました。それ故、地主は12坪程度の小屋を建てて検査を通し貸家としました。
 

2-5.昭和恐慌と川湯への人口流入

昭和初期は恐慌が深刻化します。さらに大冷害もあったため川湯に人が入り込み、地主から小屋を借りるこ人が増えました。彼らは種々の仕事を興していきます。これらの小屋は成功小屋と呼ばれました。こうした中で旅館も次々と建てられていくことになります。
 

当時の新聞記事に見る川湯の旅館群

2-6.永山在兼と道路インフラ

2-6-1.永山在兼の登場

昭和2(1927)、国立公園指定運動が盛り上がる中、釧路土木事務所長永山在兼は阿寒国立公園の周遊ルートを開発しようとします。摩周湖と弟子屈を繋ぐ道路、弟子屈と阿寒湖を繋ぐ新道を作ろうと計画したのでした。
 

2-6-2.摩周湖への道路と阿寒湖への道路

永山在兼は工事に反対する道庁を強引に説得して予算を得ます。弟子屈-摩周湖間の道路は昭和4(1929)に完成。弟子屈-阿寒湖間の阿寒横断道路は3年がかりで昭和5(1930)に完成しました。しかし予算が当初の2倍以上に膨らんだため、永山は出世コースから外れます。
 

摩周湖への道路

阿寒湖への道路

2-7.国立公園指定運動

国立公園指定運動が盛んになる中、釧路管内は一丸となって誘致に努めます。当時としては巨費の5千円を用意し、昭和6(1931)6月に田村剛博士を単独で招聘します。また同年7月には一条公爵ら国立公園調査委員15名を現地に招待しました。

2回に渡る国立公園調査委員の現地への招待は大成功となります。天候に恵まれ、摩周湖・屈斜路湖・阿寒湖に大満足したとされます。この調査の成功は永山在兼の道路建設により実現したと考えられています。こうして昭和9(1934)阿寒国立公園が誕生しました。

国立公園調査委員会一行

2-8.釧網線の開通

釧網線は昭和4(1929)に釧路-弟子屈間が開通、昭和5年に川湯駅まで到達、昭和6年に釧路-網走間が全通します。釧網線により観光客が増大すると、弟子屈駅から摩周湖へバスが運行し、川湯駅から温泉街へバスが接続しました。屈斜路湖にも遊覧船が浮かびます。
 

昭和5年の川湯駅

昭和11年の川湯駅(現駅舎)

2-9.昭和戦前期の川湯温泉街

大正末まで1軒のみであった川湯温泉ですが、インフラ整備と国立公園指定運動により昭和初期には様々な旅館が建てられました。当時の地図では浅野清次の川湯屋を継いだ五月女旅館、対岳館、川湯クラブ、紅葉館、川湯ホテル、御園旅館などの名を見ることができます。
 

川湯温泉街地図

第一クラブ

対岳館

紅葉館

2-10.戦時下の川湯

昭和初期に発展が始まった川湯でしたが、戦火が拡大していくと観光業は停滞します。温泉は銃後を守る健康づくりの場という名目で細々と営業する状態に陥ります。バスは木炭バス、列車は乗車券発売制限という厳しい状況が続き、旅館の廃業や身売りが相次ぎました。
 

戦時下の御園ホテル

戦後の川湯

戦後の不景気の中、昭和23年(1948)5月には川湯で大火が生じ、苦しい日々を送ることになります。しかしながら復興を目指して川湯の観光業者は奮起団結していきます。

このことを背景に、昭和26年(1951)川湯温泉観光協会が弟子屈観光協会から分離独立し、独自の観光振興を行うことになります。川湯温泉観光協会は「ダイヤモンドダスト in KAWAYU」など独自のイベントを展開しました。

しかし弟子屈町として一体化した観光振興が求められるようになり、川湯温泉観光協会は、平成19年(2007)に摩周湖観光協会に一本化されました。

平成の大不況は弟子屈観光にも影響を与え、旅館や商店の廃業が相次ぎました。『弟子屈町都市計画マスタープラン』では空き店舗や空き家が国立公園としての景観を損ねていることの問題点が指摘されています。

これを受けて川湯地域は環境省の国立公園満喫プロジェクトに基づき再開発を目指しています。

 

参考文献

更科源藏編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1949
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1981
弟子屈町商工会編『弟子屈町商工のあゆみ』弟子屈町商工会、1981
種市佐改「川湯と屈斜路カルデラの歴史」『新・美しい自然公園3阿寒国立公園川湯』、財団法人自然公園美化管理団、1987
弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」』弟子屈町、2004

この記事に関するお問い合わせ先
弟子屈町教育委員会 社会教育課

〒088-3211
北海道川上郡弟子屈町中央2丁目3番2号
電話番号:015-482-2948 ファクス:015-482-2343

更新日:2023年07月14日