戦後弟子屈観光史

現在の弟子屈町は「農業」と「観光」の町であると謳われています。では、弟子屈町の観光はどのように発展してきたのでしょうか。ここでは戦後における弟子屈の観光産業の展開を解説していきます!

敗戦と弟子屈観光

戦争から解放された人々は旅行へとむかいます。昭和21年(1946)6月、弟子屈・川湯の旅館は週末になると超満員となりました。弟子屈駅では1日の乗降客が1200人を超える賑わいを見せます。しかし年末には預金封鎖と新円切替の影響で不況となり観光客は遠のきました。

川湯の大火

昭和23年(1948)5月24日、子どもの火遊びが原因で川湯は大火となり市街の16棟31世帯が全焼しました。被災者約136人は御園ホテル等三か所に収容され途方に暮れる日々を過ごします。しかし、川湯温泉の観光業者は復興のため奮起団結していきます。

2つの観光協会

昭和9年(1934)阿寒国立公園(現阿寒摩周国立公園)が誕生したことを受け昭和12年(1937)弟子屈観光協会が創設されます。戦時中は停滞しますが昭和25年(1950)に新体制となりました。一方川湯では大火からの復興を背景に昭和26年(1951)川湯温泉観光協会として分離独立します。

川湯観光協会は地域を盛り上げるため、独自の新規イベントを開催しました。現在まで続いている有名なものとしては下記の「ダイヤモンドダスト in KAWAYU」などがあります。

聖地巡礼の先駆け~映画『君の名は』~

弟子屈観光に転機をもたらしたのは映画『君の名は』です。昭和28年(1953)岸恵子や北原三枝ら一行は硫黄山や南弟子屈駅を舞台にロケを展開。これが上映されると戦後復興期と重なって空前の阿寒国立公園ブームが巻き起こります。いわゆる聖地巡礼の先駆けでした。

今は無き南弟子屈駅の旧木造駅舎も『君の名は』のロケ地として使用されたことで有名であり、主人公とヒロインの別れのシーンのクライマックスを彩りました。
 

昭和30年代の弟子屈観光

昭和30年代には『君の名は』ブームに国鉄の観光事業が重なり相乗効果を生みます。国鉄の周遊指定券制度や北海道観光号により大口の一般団体や修学旅行団体が激増しました。屈斜路湖の遊覧船が人気を集め、弟子屈観光まつりで賑わいました。

種市佐改と「三白観光」

昭和30年代の好況の一方で道東にはデカンショ観光という欠点がありました。これは出稼ぎ観光という意味で道東は夏季しか観光できず冬季は休業してしまうというものでした。そのため観光産業を担う労働者が熟練せず、サービスの質が低いことが問題視されていました。種市佐改氏は冬季休業を打破すべく、丹頂・白鳥・流氷の「三白観光」を昭和39年(1964)に提唱し、積極的な観光策を展開していきます。

冬季観光の進展

デカンショ観光の汚名返上には昭和40年代後半までかかります。昭和48年(1973)は道東観光にとって画期的な年となりました。除雪が向上し阿寒湖-摩周湖-川湯-美幌峠-美幌のバスが冬も運行します。釧路-東京間のフェリーやジェット機が就航したのもこの頃です。

文化施設の建設

1980年代は町内文化施設が次々と整備されました。昭和57年(1982)には屈斜路コタンアイヌ民俗資料館(現アイヌ民族資料館)、昭和59年(1984)には川湯相撲記念館、昭和60年(1985)には摩周観光文化センターが創設されました。

屈斜路コタンアイヌ民族資料館では人気作品『ゴールデンカムイ』と度々コラボして注目を集めました。また資料館の館長であった故・弟子豊治氏が祭主として参加した「キタキツネの霊送り」を撮影した映画『チロンヌプカムイイオマンテ』の上映などで人気を博しています。

川湯相撲記念館は小5から高1の夏までを弟子屈で過ごした横綱・大鵬の活躍を讃える施設です。

摩周観光文化センターには令和5年(2023)から「ふるさと歴史館」が設置されており、郷土の詩人更科源藏や道東観光に貢献した種市佐改、民具などを中心とした郷土の歴史を学ぶことができます。

 

屈斜路コタンアイヌ民族資料館(※開館時は民俗)

川湯相撲記念館

摩周観光文化センター

弟子屈観光の最盛期

摩周温泉・川湯温泉・摩周湖・屈斜路湖の年度別観光客入込数を見てみましょう。その合計は昭和43年度(1968)に200万人を超え昭和51年度(1976)に390万人に達し、以後300万人代で推移しながらバブル経済終末期の平成3年度(1991)には447万6588人で過去最高となりました。

年度別観光客入込数1963-2003(JPEG:855.6KB)

平成の大不況の影響

平成3年度(1991)に最盛期を迎えた弟子屈観光でしたが、以後は衰退します。摩周温泉・川湯温泉・摩周湖・屈斜路湖の年度別観光客入込数の合計は平成16年度(2004)に300万人を割ってしまい、以後の平成時代は300万人を超えることはありませんでした。

年度別観光客入込数1996-2019(JPEG:646.2KB)

2つの観光協会の一本化

低迷する弟子屈観光ですが様々な取組がなされています。弟子屈観光協会は「弟子屈温泉観光協会」(1952)、「摩周温泉観光協会」(1980)、「摩周湖観光協会」(1992)と変遷しました。その後、「摩周湖観光協会」は平成19年(2007)に「川湯温泉観光協会」を一本化し、現在も弟子屈全体の観光振興を担っています。

下の写真は一本化後に「摩周湖観光協会」が川湯の観光事業を行う様子です。

国立公園名称変更運動

阿寒国立公園の名称に摩周を加える名称変更運動が戦後に始まります。根拠は阿寒国立公園の面積の約半分は弟子屈町が占めており摩周湖・屈斜路湖も含まれているからでした。長年に渡る関係者の努力が実り平成29年(2017)「阿寒摩周国立公園」に名称が変更されました。

当時の広報からは名称変更に湧く弟子屈町の様子を読み取ることができます。

『広報てしかが』757号、弟子屈町、2017、2-3頁(JPEG:1.2MB)

弟子屈町複合型地域観光交流拠点

平成の大不況は旅館や商店にも打撃を与えました。『弟子屈町年計画マスタープラン』(2023)では、廃業が相次いだことや空き家が目立ってきたことの問題が指摘されています。これに対し国立公園のまちにふさわしい市街地の景観づくりが求められ、様々な再開発が計画されています。

参考文献

更科源藏編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1949
『開校五十年史』川湯小学校開校50周年記念協賛会、1976
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町役場、1981
弟子屈町商工会編『弟子屈町商工のあゆみ』弟子屈町商工会、1981
弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」』弟子屈町、2004
弟子屈町史編さん委員会『弟子屈町史』弟子屈町役場、2005
『広報てしかが』757号、弟子屈町、2017
『てしかが町知って得する便利帳』弟子屈町、2020
北海道弟子屈町編『都市計画マスタープラン』弟子屈町、2023

<web>
「弟子屈町年度別観光客入込数」https://www.town.teshikaga.hokkaido.jp/material/files/group/9/H7-R1kankoukyakusuu.pdf、2023年9月7日17時04分閲覧
「川湯温泉キャラバン隊が出発!」https://www.town.teshikaga.hokkaido.jp/kurashi/camera_sketch/3788.html、2023年9月7日17時04分閲覧
 

この記事に関するお問い合わせ先
弟子屈町教育委員会 社会教育課

〒088-3211
北海道川上郡弟子屈町中央2丁目3番2号
電話番号:015-482-2948 ファクス:015-482-2343

更新日:2023年09月08日