小田切栄三郎~弟子屈における農業経営の指導者~

弟子屈が行政的に独立したのは明治36年(1903)であり、弟子屈と屈斜路を管轄する「弟子屈外一村戸長役場」が設置されました。それまでは「熊牛外四村戸長役場」の下に置かれ熊牛・塘路・虹別・弟子屈・屈斜路の5村で一つの行政単位でした。

弟子屈が行政的に独立できたのは、明治30年(1897)に御料農地となり植民が進められたからです。この時、弟子屈御料地のトップに立って移民を誘致し、道東に適した営農技術を施したのが小田切栄三郎でした。

この記事では前段として小田切栄三郎がやってくる前の弟子屈を概観した後、小田切氏が本町にどのような功績を残したのかを紹介していきます。
 

小田切栄三郎赴任以前の弟子屈

近世江戸期における北海道沿岸部開発

北海道への進出は近世江戸期に盛んになり、18世紀になると松前藩は商人に漁場や商場の経営を請け負わせ税を徴収するようになりました。こうして北海道の沿岸部は次第に開発が進んでいきましたが、内陸部は未だ鬱蒼とした原始林に覆われており、弟子屈もそのような状況でした。寛政年間より釧路場所を請け負ったのは祖を越後国出身とする佐野孫右衛門(世襲名)であり、その4代目は釧路の漁場開発を手がけました。

佐野孫右衛門は釧路の漁場持。釧路市には彼を顕彰する佐野碑園がある。跡佐登硫黄山の開発にも着手した。

硫黄山時代の弟子屈

弟子屈の近代化は明治10年(1877)の硫黄山採掘から始まると言われています。硫黄山開発を遠因として弟子屈には温泉宿が作られ、釧路地方のインフラ整備が進みました。しかし資源収奪型の開発には限界があり、明治29年(1896)には安田財閥による硫黄山採掘は休鉱となってしまいました。

安田善次郎は、佐野孫右衛門・山田慎を経て跡佐登硫黄山の経営権を握った。明治20年には硫黄山と標茶の間に北海道で2番目の鉄道を敷いた。

硫黄山休鉱後の弟子屈

硫黄山休鉱後、大塚要吉・更科鉄太郎ら硫黄山関係者は、自由移民でやってきた更科治郎ら新潟出身の僅かな農民たちと亜麻製造会社を設立します。しかし濃霧により亜麻は腐り、資本主の大塚も死亡し、計画は失敗に終わります。このような中、弟子屈の農地経営を成功に導いたのは北海道庁から御料局に転じた小田切栄三郎だったのです!

更科治郎は、明治23年(1890)に熊牛原野に入地した弟子屈農民第1号。背景には硫黄山鉄道で働く兄鉄太郎の手引きがあった。更科治郎を頼って故郷の新潟から入した人々もいた。

御料局と御料農地

御料局とは何か

小田切栄三郎が所属していた御料局とはどのような機関だったのでしょうか。明治維新を経て天皇を中心とする国作りが始まりますが、自由民権運動が起こると議会の開設が求められます。これを受けて議会に左右されない皇室財産の確立が目指され明治18年(1885)に宮内省に御料局が設置されます。

宮内省の御料局が置かれたことを知らせる官報

御料農地への編入

明治23年(1890)、北海道の御料地は官有地200万町歩の移管を受け設定されます(後に137万町歩を返還)。弟子屈御料地は宮内省御料局札幌支庁川上出張所の所管で発足しましたが、この時点では開店休業状態でした。

御料農地の経営が進むのは、御料局長に岩村通俊が就任してからです。岩村通俊は1886~1888年の間、道庁長官を務めた経験があり、北海道の開発に関心がある人物でした。岩村は1891~1904の期間、御料局長を務めるのですが、北海道の御料農地に力を入れました。

こうして、弟子屈では明治30年(1897)に御料地のうち2,000万坪が御料農地として経営されることになりました。宮内省御料局札幌支庁川上出張所には農業課派出所が併置されました。この派出所に赴任してくるのが、小田切栄三郎だったのです!

弟子屈来訪以前の小田切栄三郎

父親との確執

明治30年(1897)に弟子屈の原野が御料農地に編入されると、小田切栄三郎が御料局札幌支庁川上派出所に赴任してきます。弟子屈の農地経営の指導者となった小田切氏はどのような生い立ちだったのでしょうか。

小田切氏は慶応元年(1865)6月24日、津軽藩の支藩黒石藩城代家老小田切舎人の次男として生まれます。小田切栄三郎は農学への関心を深めていましたが、父親はそれを強く否定しました。

小田切栄三郎は、明治30年(1897)に弟子屈の原野が御料農地に編入された後、川上派出所に赴任。以後、大正9年(1920)に栄転するまで、弟子屈の農林業の発展に寄与した。

札幌農学校時代

父に将来を否定された小田切栄三郎は家を出て渡道し札幌農学校に入学します。真宗門徒の小田切氏は宮部金吾らのキリスト教の教えに反抗しましたが、温厚な宮部に感化されていき、明治21年(1888)に改宗しました。宮部氏は小田切氏と深い関係になり、幾誠子との結婚式では司式を務めています。

道庁時代

明治25年(1892)7月、小田切栄三郎は札幌農学校10期生として卒業し、11月に道庁拓殖部に入ります。小田切氏は道庁の論文募集で農業開発における畜産導入を論じますが2等に終わります。論文審査の担当は大農経営を主張する新渡戸稲造らであり、小田切氏は納得しがたいものがありました。

小田切栄三郎の移民政策

富山県移民

道庁から御料局に転じ弟子屈に赴任した小田切栄三郎は御料農地の開発に取り組みます。明治31年(1898)、まずは下鐺別に農業試験場を開き、適作物の試験と有畜農業の経営に取り組みます。また入植させる農民を募るため自ら富山県に渡り、西礪波、上新川、射水の各郡から移民50戸の募集に成功しました。彼らは翌明治32年(1899)、弟子屈に入地しました。

富山県より入植した移民たちは、明治37年(1904)に弟子屈神社が現在の場所に移設され神殿が新しくなった際に、鐺別獅子舞を奉じた。翌年には仁多獅子舞が奉じられており、両者は昭和44年(1969)弟子屈町の無形文化財に指定された。

制度的移民誘致

御料農地は皇室財産のため開墾しても土地所有権が得られないので制度的に移民誘致をはかる必要がありました。そのため小作を安定させる「北海道御料地内農業地貸下規定」を制定し、さらに僻地には「移住費貸与及補給規則」を適用します。この規則が適用されたのは唯一弟子屈のみだったのです。

「北海道御料地内農業地貸下規定」

小田切栄三郎の農業政策

御料農地経営方針

小田切栄三郎は農業試験場に移民の青年を入れて人夫とし生活費の一部を賄いながら実習させるという合理的手法を取りました。また明治33年(1900)には御料農地をどのように経営するかについて論じた書物を著し、痩せた土地・寒冷な気候・交通機関の不備の下では主穀農業は不利で混同農業が有利であると唱えました。

明治33年に御料農地をどのように経営するかについての方針を記した著書

馬産

貸馬子分法と競馬

混同農業を実践するため小田切栄三郎はトロッター系の種馬2頭と土産馬25頭を導入し、牝馬を入植者に貸し付けました。馬に慣れていない移民は渋い顔をしましたが、同時に競馬も始められ、弟子屈競馬で勝った馬は釧路競馬次いで帯広競馬にも優勝したため、急に人気となり移民たちは見る目を変えました。

馬文化を伝えるための輓馬大会(1)

馬文化を伝えるための輓馬大会(2)

冬山造材と馬畜

釧路奥地の弟子屈では移入品は高く移出品は安かったため現金収入は乏しい状況でした。明治38年(1905)に富士製紙が進出し林業開発が始まると現金収入の無い御料地農民に兼業就労の道が開かれます。農家は畑に馬鈴薯と馬用の燕麦を作り、馬を連れて林業賃労働で稼ぎ「川上に不作なし」と言われるようになります。

冬山と馬搬(1)

冬山と馬搬(2)

養牛

養牛の重要性

明治33年(1900)に小田切栄三郎によって著された御料農地経営の方針を論じた書物では、牛が重視されています。要約すると、養牛が盛んになれば付随して製乳・製酪も行われ、安い作物から高価な動物生産品へ変わる。地方の状況は一変し、農家生計は自然に進歩し、これまでの辛い農業は娯楽となって本道の模範農村として発達するだろうと企図しています。

弟子屈の肉牛

明治40年(1907)、小田切栄三郎はエァシャーの種牛を買い入れ、雑牛に乳牛の血を加えます。2年後の釧路町における1回牛馬畜産共進会では種牛ライト号で1位に入賞しました。しかし需要は肉としての目的が主であり旭川の第七師団で消費されたことをきっかけに「弟子屈の肉牛」として広まりました。

弟子屈の和牛は旭川の第七師団で消費され「弟子屈の肉牛」と呼ばれた。現在の摩周和牛は姉妹都市である鹿児島県日置市から導入したものである。

緬羊

小田切栄三郎が馬、牛に続いて導入した家畜は緬羊でした。大正5年(1916)、小田切氏は被服の自給をねらいシュロップシャ、サウスダウン等の緬羊を移入します。2年後の開道50年記念博覧会ではシュロップシャの牡羊が一等になり金牌が授与されました。しかし野犬被害や輸送費の問題で一般には広がりませんでした。

御料局以後の小田切栄三郎

弟子屈に対する思い入れ

小田切栄三郎の退村

御料移民は明治末までに8次に渡って募集されました。その数は199戸に及び、自由移民9戸と合わせると208戸となります。大正年代は不足を補う程度に入植されました。こうして小田切栄三郎により弟子屈の農地経営は展開されましたが、大正9年(1920)12月、小田切氏は札幌転勤の辞令を受け弟子屈を去ります。

小田切栄三郎の再訪

弟子屈を去った小田切栄三郎でしたが、大正10年(1921)自ら休職し、弟子屈に戻ります。大正12年(1923)には朝鮮貴族ソン・ビョンジュン伯爵が払い下げを受けた熊牛の大農牧場の管理を任され牧場長となります。また翌年には自身も塘路に小田切家畜場を設けて果樹園を開き、両者の経営に邁進します。

栄転し弟子屈を離れた小田切栄三郎

小田切栄三郎の休職を伝える官報。この後、小田切栄三郎は弟子屈に再び戻ってきた。

新渡戸稲造と小田切栄三郎

昭和6年(1931)5月、新渡戸稲造が弟子屈の鐺別温泉を訪れ、小田切栄三郎と会談します。農業経営に畜産を取り入れることを新渡戸氏に否定された小田切氏でしたが、弟子屈には彼の信念により開かれた土地が広がっていました。小田切氏は「われ世に勝てりということばがあったね」と述べたとのことです。

小田切栄三郎の死後

小田切栄三郎の死

昭和13年(1938)7月小田切栄三郎は札幌の自宅で息を引き取りました。弟子屈小学校では追悼会が開かれ、小田切氏を慕う人々はその死を悼んだのでした。遺骨は弟子屈と東京に分骨され多磨霊園には「汝ら世にありては患難あり/されど雄々しかれ/我すでに世に勝てり」との聖書の言葉が刻まれています。

小田切栄三郎の顕彰

昭和52年(1977)、前年の火事から新築復旧した役場庁舎の落成式が行われ、あわせて町制施行30周年の記念事業として「風雪の碑」が除幕されました。この碑は入植した一般の人々を象徴する像を中央に据え、左右に農業経営の指導者・小田切栄三郎と二代目村長・青木貞行のレリーフをはめ込んだもので、小田切氏の功績が顕彰されています。

参考文献

町史

更科源蔵編『弟子屈町史』弟子屈町、1949
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、1981
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、2005

記念誌

弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」弟子屈町、2004

小田切栄三郎関係

渡辺源四郎『東北海道の人物』釧路日日新聞社、1926
若林功『北海道農業開拓秘録 第2篇』水産社、1942
北海道総務部文書課編『開拓につくした人びと 第4巻 (ひらけゆく大地 下)』理論社、1966
生井郁郎『育林技術の発展過程に関する研究1:旧弟子屈御料林における育種技術の実態分析』「北海道農林研究」第45号別冊、北海道立総合経済研究所、1974
酒井勉『風雪の群像 上:北海道農業を築いた人々』日本農業新聞北海道支所、1993
STVラジオ編『ほっかいどう百年物語 第8集:北海道の歴史を刻んだ人々』中西出版、2008

旧営林署関係

和田国次郎『明治大正御料事業誌』林野会、1935
『庁舎落成記念誌』弟子屈営林署、1964
『樹氷 10月号:弟子屈営林署新庁舎落成記念特集号(抄)』第14巻・第11号・12号、帯広林友会、1964
 

この記事に関するお問い合わせ先
弟子屈町教育委員会 社会教育課

〒088-3211
北海道川上郡弟子屈町中央2丁目3番2号
電話番号:015-482-2948 ファクス:015-482-2343

更新日:2023年11月15日