先史時代の弟子屈

弟子屈町では50箇所の遺跡(埋蔵文化財包蔵地)が確認されており、土器や石器など様々な遺物が出土する遺構があります。その出土品からは古来よりこの地域で人々が暮らしていたことが分かります。ここでは遺跡や遺物などから先史時代の弟子屈をご紹介します。

旧石器時代

近年の調査研究により北海道に人類がやってきたのは約3万年前とされています。当時は氷河期で樺太を通じ陸続きでした。人々は打製石器を使い、移動しながら狩猟や漁撈をして暮らしていたとされています。

釧路地方では北斗遺跡から旧石器時代の石器が出土しています。弟子屈における旧石器は釧路川右岸で旧石器の石刃が出土したとされていますが、詳細は不明で出土地点も明らかになっていません。

町史には以下のように記されています「本町の例は市街地北西方の釧路川を見下る海抜高度103メートルの河岸段丘上という。昭和20年代後半に、加藤晋平氏が石刃一点の出土を確認しているが、町内某氏が所蔵していたと伝えられるのみで、くわしいことは分からない。」(『弟子屈町史』弟子屈町、1981、100頁)。

人類が北海道にやってくる前の遺物

人類が弟子屈にやってくる前の痕跡。約500万年前、弟子屈は海の底であった。

縄文時代

縄文早期 (約8000年前~約6000年前)

時代的特徴

弟子屈で明確な遺物が出土するのは約8000年前~約6000年前の縄文早期からです。

当時の釧路川下流域は、釧路湿原の低地が「縄文海進」により海でおおわれ、前面の内湾と後方の森林を生活の舞台としていました。縄文早期の古い段階は旧海岸線沿いの低地に面した台地に集落を形成していましたが、縄文早期の新しい段階には内陸奥地へ生産活動の場を拡充します。

この時代の出土品としては、屈斜路コタン遺跡の副葬品が特筆されます。暖流系のホオジロザメの歯骨を持つものが数例発見されており、安定した集落の存在が推定されています。この遺跡は、釧路川流域の最も奥地に位置する縄文早期の集落址として重要です。

縄文早期の遺物

縄文前期 (約6000年前~約5000年前)

時代的特徴

釧路川下流域の釧路湿原の低地一面に海が広がり、内湾が形成され、「古釧路湾」と呼ばれる縄文の海が完成しました。

この時代には海を生活の場とした人々の他に、内陸奥地に狩猟・漁撈・採集の山住みの生活をおこなっていた人々が住んでいたことが分かります。

この時代の遺物が出土する遺跡として屈斜路コタン遺跡が知られています。この遺跡は道道屈斜路-摩周湖畔線を挟んで東西に分布が分かれています。

縄文前期の遺物

縄文中期(約5000年前~4000年前)

時代的特徴

この時代は気候の減暖化により海水面の低下が進行します。釧路の低地の海は淡水の流入が激しくなり、縮小され、汽水性の内湾から潟湖へと移行しつつあった時期にあたります。

釧路地方ではモコト式土器と北筒式土器が知られており、これらの土器に伴う石器として石鏃、石槍が出土します。

平成9年夏、弟子屈小学校を建て替える時に行った調査では、縄文中期の北筒式土器が発見されています。
 

縄文中期の遺物

縄文後期(約4000年前~3000年前)

時代的特徴

この時代は釧路川下流域で低地の海水が退き、現在にみる地形が完成した時期に当たります。気候の寒冷化が急激に進み、自然環境が悪化したと考えられており、遺跡数は極めて少ないのです。

釧路地方では、縄文後期末~晩期初頭に編年される土器を出土する狩小屋的な小規模遺跡が30余か所あります。

小規模遺跡が点在していることからは、釧路川上流で少人数の集団が乏しい食料資源を求め、移動を繰り返していた様子を推測させます。

この時代の出土品としては、下鐺別から土器の破片が発見されています。

縄文晩期(約3000年前~2000年前)

縄文晩期には、川筋も定まり、より現在に近い自然景観を呈するようになります。釧路地方では幣舞式土器、緑ヶ丘式土器が盛行しますが、釧路川上流域には遺跡はまったくといっていいほど見られません。この理由としては生産活動の場が河口地帯に移ったためと推測されています。

続縄文時代(約2000年前~1300年前)

時代状況

本州では縄文時代の後には稲作が伝来し弥生時代へ移行しますが、当時の北海道では稲作は不適であったため、狩猟・漁撈・採集の時代が続きます。

続縄文時代には、縄文中期以降続いた気候の寒冷化現象が回復し、ほぼ現在の気候に落ち着きます。

この時代の土器が出土した遺跡としては矢沢遺跡があります。矢沢遺跡出土の続縄文式土器は、北見網走地方の系統をひいており、美幌峠を介して同地方と往来していたと考えられています。

続縄文時代の遺物

擦文時代(7・8世紀~13・14世紀)

時代的特徴

この時代になると土器文様としての縄文は姿を消します。代わってハケ目・刻み目・刻線などの擦文土器が出現します。本州文化の影響を受けており、鉄製品、漆器類、紡織技術などが持ち込まれています。

この時代の遺物が出土する本町の遺跡の多くが、南弟子屈を中心とした一帯の河岸段丘に分布しているところに注目されます。これらの遺跡は漁撈との関わりが指摘されており、サケ・マス漁を抜きにしては考えられない地形を選んで立地されたと推測されています。
 

擦文時代の遺物

トビニタイ文化

5世紀頃、大陸のアムール川下流域から樺太を渡り、海洋民がオホーツク海沿岸に渡来します。彼らの土器は粘土紐を特徴としています。このオホーツク式土器は、後に擦文土器と融合し、両者の特徴を備えるトビニタイ土器が作られました。

本町でもトビニタイ土器が出土しており、このことはオホーツク文化が沿岸部だけでなく内陸部にも深く入り込んだ事例として考えられています。

トビニタイ土器

チャシの築かれた時代

13世紀頃から土器が作られなくなります。擦文土器消滅後、顕著となる遺跡はチャシ跡でした。チャシは柵囲いを語源とし砦や祭祀など多様な目的があったとされ、本町には計8ヶ所のチャシ跡が見つかっています。

屈斜路湖西岸のウランコウシチャシ跡、屈斜路コタンの対岸に位置する丸山(クッシャロシペ)第1・第2チャシ跡、南弟子屈地域の釧路川右岸にあるプイラクニチャシ跡、ヌパシナイ第1・第2チャシ跡、サンペコタンチャシ跡、同じく釧路川左岸にある熊牛チャシ跡です。

そのうちウランコウシチャシ跡、クッシャロシペ第1・第2チャシ跡、プイラクニチャシ跡の4つが国史跡に指定され、釧路川沿岸の他市町村のチャシと共に「釧路川流域チャシ跡群」を構成しています。

 

「釧路川流域チャシ跡群」に指定された4遺跡の調査

主要参考文献

弟子屈町教育委員会「弟子屈町下鐺別遺跡発掘報告」1971
弟子屈町教育委員会「弟子屈町矢沢遺跡調査報告―第一次調査」1977
弟子屈町教育委員会「弟子屈町矢沢遺跡調査報告」1978
弟子屈町教育委員会「弟子屈町屈斜路コタン遺跡発掘報告」1978
沢四郎「先史時代の弟子屈」『弟子屈町史』1981、99-120頁
永田等「大昔の弟子屈」(1)~(3)『広報てしかが』1994年3月号~5月号
永田等「大昔の美留和」『郷土学習シリーズ3 美留和』川湯自然研究会、2008、33-34頁
永田等「鐺別川流域の遺跡」『郷土学習シリーズ4 奥春別』川湯自然研究会、2009、17-18頁
舘山樹里「プイラクニ・チャシを見学」『郷土学習シリーズ5 南弟子屈』弟子屈町教育委員会、2010、27-28頁
永田等「南弟子屈の先史時代の遺跡」『郷土学習シリーズ5 南弟子屈』弟子屈町教育委員会、2010、21-26頁
永田等「弟子屈町内の遺跡」『郷土学習シリーズ6 弟子屈』弟子屈町教育委員会、2011、32-35頁
「弟中のふるさと学習」『郷土学習シリーズ8 釧路川』弟子屈町教育委員会、2013、12-22頁
片岡佑平「釧路川上流部の遺跡」『郷土学習シリーズ8 釧路川』弟子屈町教育委員会、2013、23-25頁

この記事に関するお問い合わせ先

ふるさと歴史館(教育委員会 社会教育課)
〒088-3201
北海道川上郡弟子屈町摩周3丁目3番1号
摩周観光文化センター内
電話番号:015-482-2368(ファックス共通)
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更新日:2023年12月23日