皇族来訪から見る弟子屈の歴史
弟子屈は明治30年(1897)に皇室の御料農地に編入され、宮内省御料局によって移民の導入と寒冷地に適した営農指導が行われました。このことを背景に人口が増加し、明治36年(1903)行政的に独立することとなります。このように弟子屈は皇室と関係の深い土地であり、しばしば皇族が訪れています。ここでは町史・100年記念誌・商工のあゆみ・広報の記述から皇族を視点に弟子屈の歴史をご紹介します。
昭和7年(1932) 澄宮殿下(大正天皇第4皇子)
弟子屈を初めて訪れた皇族は昭和7年(1932)の澄宮殿下(後の三笠宮崇仁親王)です。澄宮は大正天皇の第4皇子であり今上天皇(徳仁)にとっては大叔父にあたります。澄宮は丸米旅館に宿泊したとの記録が残っており、100年記念誌には宿泊時の丸米旅館の外景が掲載されています。また『商工の歩み』では御宿泊の記念に旅館関係者一同を写した写真が収録されています。
昭和29年(1954) 昭和天皇の戦後巡幸
第二次世界大戦後の昭和29年(1954)、昭和天皇と香淳皇后が弟子屈を訪れました。昭和天皇は昭和21年(1946)元日に人間宣言を行い、2月から日本各地へ巡幸を始めます。混乱する日本を天皇が直接視察することで、人心の安定を図り、国民を慰問することが目的でした。この巡幸は昭和29年(1954)まで続きます。
北海道は最後に巡幸した地であり、昭和29年(1954)に札幌で開催された国民体育大会隣席後、道内各地の民情視察を行います。8/14に両陛下は弟子屈駅に降り立ちます。この後、昭和天皇が視察されたのは釧路拓殖実習場と札友内小学校でした。
釧路拓殖実習場
実習場設置の背景
釧路拓殖実習場は道庁によって昭和10年(1935)~昭和36年(1961)まで弟子屈に設置された施設です。1920年以降、日本では相次ぐ恐慌(戦後恐慌・震災恐慌・金融恐慌・昭和恐慌)が発生し、失業人口がダブついていました。さらに1930年になると南米移民も禁止されたため新たな人口のはけ口が必要となりました。そのため北海道に残されていた未開地の開拓が企図されました。しかし開拓計画や営農指導は疎漏であるにも関わらず、宣伝は過大であったため反発を招くことになります。
釧路拓殖実習場の成立
無計画な移民導入により批判を浴びた道庁では寒冷地農業を内地移民に指導する機関を設置することになりました。それが拓殖実習場です。十勝、北見に続き昭和10年(1935)釧路拓殖実習場が弟子屈に設置されたのです。もともとは内地人口のはけ口が目的ですので、初年度は入場が内地移民に限られました。しかし寒地に慣れており農業をやりたいと願う道内の青年が入場できないのはおかしいという批判が巻き起こります。そのため次年度からは道内青年も許可され、実習を終えれば土地がもらえるということで、狭隘な農家の次男・三男が入場しました。
戦後入植と実習場
1930年代、戦火が激しくなるにつれ拓殖実習場の性格は改変され、満蒙開拓義勇軍の訓練基地と化します。しかし戦後は本来の目的に戻ります。終戦後、日本は満洲・樺太・千島・朝鮮・台湾・南洋等を喪失し、復員兵・引揚者・被災者で人口が溢れかえりました。そこでそれらの人々を道内に入植させる戦後開拓が推進され、実習場は人材育成を担うこととなります。実習場は昭和36年(1961)に廃止されるまで根釧地方開拓を担う人材を多数輩出し、道東開発に貢献しました。
札友内小学校
釧路拓殖実習場に続き、昭和天皇は辺地校の視察として札友内小学校を訪れました。当校は戦後入植の子弟により児童数が大きく増加した小学校でした。昭和天皇の巡幸の目的は、戦後混乱期の慰問であるので、辺地に入植した戦後開拓者の子弟の教育を視察したのです。戦後にわかに生徒数が増えた札友内小学校ですが、高度経済成長による過疎化の進展により人口は減少。1972年に廃校となり、現在は「札友内寿の家」が所在しています。そこには天皇行幸記念碑が建っており、往年を偲ぶことができます。

昭和29年(1954)昭和天皇行幸における弟子屈でのご旅程詳細(『昭和天皇実録 第十一』東京書籍、2017、717-718頁より)
昭和29年8月14日土曜日
午前10時10分御宿泊ホテル山水閣をご出発になり、網走駅より弟子屈駅に向かわれる。途中の斜里駅前奉迎上において、天皇お一方にて町民等の奉迎を受けられ、午後零時47分弟子屈駅に到着になる。
皇后は御風気のため以後の御予定を変更され、同駅より阿寒郡阿寒村の御泊所阿寒湖荘へ向かわれる。天皇はお一方にて川上郡の弟子屈町奉迎上の同町立弟子屈小学校に臨まれ、町民等の奉迎を受けられる。
ついで北海道立釧路拓殖実習場を御訪問になる。便殿において場長森仁太郎より同実習場の概況等を御聴取になり、ついで屋外において実習生の農業実習や陳列されたトラクターなどの農機具を御覧になる。
続いて摩周湖を展望される御予定であったが濃霧のためお取り止めになり、弟子屈町立札友内小学校へ向かわれる。御到着後、便殿において校長田村弦蔵より辺地の児童教育の実情をお聞きになり、単級複式授業の模様や児童の成績品等を御覧になる。
次に阿寒郡寒村の阿寒双湖台において釧路国支庁長佐々木雄助の説明をお聞きになり、ペンケトー・パンケトー両湖を御展望になる。4時30分御泊所阿寒湖荘に御到着になる。御夕餐後、湖上において催された花火、村民による提灯船やアイヌによる松明船などを御泊所より御覧になる。『昭和天皇実録 第十一』東京書籍、2017、717-718頁より
昭和30年(1955) 清宮貴子内親王(昭和天皇第5皇女)
昭和30年(1955)7月に弟子屈を訪れた皇族が清宮貴子内親王です。貴子内親王は昭和天皇第5皇女であり、今上天皇(徳仁)の叔母にあたります。この時の貴子内親王はご在学中の身分であり、夏休みを利用した避暑のための北海道旅行で弟子屈を訪れることになりました。美幌峠から弟子屈入りした貴子内親王は砂湯を経て川湯の御園ホテルで昼食を召し上がりました。次いで、硫黄山、摩周湖を見学した後、弟子屈グランドホテルにご宿泊になりました。翌日は阿寒方面へ抜けています。
昭和33年(1958) 上皇(明仁)陛下の皇太子時代
上皇陛下(明仁)がまだ皇太子であった昭和33年(1958)、翌年に正田美智子様(現・上皇后)との結婚を控えながらも北海道へ10日間の視察旅行を行いました。弟子屈を訪問なさったのは6/26であり今泉秀雄町長を先導役とし、美幌峠から屈斜路湖をご展望なさった後、砂湯、硫黄山、摩周湖、釧路拓殖実習場をご見学、摩周グランドホテルにご宿泊なさいました。翌日はグランドホテルをお発ちになり、標茶方面へ抜けています。
平成6年(1994) 今上天皇(徳仁)陛下の皇太子時代
今上天皇(徳仁)がまだ皇太子であった1994年、雅子妃を伴い私的な旅行として道東をご訪問しました。弟子屈へは9/12に清里からお入りになり、摩周湖、次いで和琴半島を見学します。陛下が釧路圏摩周観光文化センター沿道をお通りになった際には、なんと1500人もの人々がその姿を一目見ようと押し寄せました。
翌9/13は、摩周湖がよほどお気に召したようで二度目のご訪問をなさいました。その後、900草原を訪れ田中助役(当時)の先導の下で見学します。この時陛下は歓迎のために立ち並んだ町民に対して、声をかけてくださったり、手をお振りくださったりしました。陛下は雄大な自然を前に、自らカメラのシャッターを押して景観を撮影するなどお楽しみになりました。
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ふるさと歴史館(教育委員会 社会教育課)
〒088-3201
北海道川上郡弟子屈町摩周3丁目3番1号
摩周観光文化センター内
電話番号:015-482-2368(ファックス共通)
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更新日:2024年04月26日