阿寒摩周国立公園から見る弟子屈の歴史

今回は国立公園から弟子屈の歴史を読み解きます。まず国立公園全体としての指定過程を紹介した上で、なぜ「阿寒」という地域が国立公園になり、屈斜路湖・摩周湖・硫黄山といった弟子屈エリアまで内包されるようになったかを解説します。

1.日本における国立公園の歴史

1-1.国立公園の指定

日本において初めて国立公園が指定されたのは1934(昭和9)年の出来事でした。3月16日に瀬戸内海・雲仙・霧島が指定され、続いて12月4日に阿寒・大雪山・日光・中部山岳・阿蘇が指定されました。
では、一体どのようにして、日本では国立公園が指定されることになったのでしょうか。

1-2.都市計画と公園行政の始まり

では国立公園はどのようにして成立したのでしょうか。その背景を探っていきましょう。日本の公園行政は都市計画と共に始まります。明治維新後、日清戦争・日露戦争を経て着実に工業化を果たした日本では、帝都以外の地方でも都市づくりが求められるようになります。こうして都市計画が必要となり、1919(大正8)年、旧都市計画法が制定されるのです。都市計画では公園を管轄する必要があるため、内務省衛生局では公園に関する法制度の整備などを行うことになりました。

1-3.田村剛の登場

これにより1920(大正9)年8月に田村剛が内務省衛生局の嘱託となります。田村は帝大出身で造園を学んだ林学博士です。田村は内務省衛生局という国家レベルの政府機関は、都市公園よりも国立公園を扱うべきだと主張します。都市公園については田村以外の造園学徒が都市計画の中に参入したため問題は解決しました。

1921(大正10)年、田村は上高地を皮切りに調査を始めます。国立公園の候補地については都度変遷があり、初めて正式に内務省衛生局から公表されたのは1923(大正12)年の第46回帝国議会の時でした。衛生局の横山助成局長はその答弁において、国立公園は大自然に国民を親しませるもので、配置は全国に渡り1922(大正11)年から計画を始めたと答えています。

内務省衛生局で活躍した田村剛博士

1-4.国立公園調査の一時中断

第44回帝国議会の横山助成局長の答弁で公表された16調査地については様々な意見があり、特にアメリカ国立公園の現地視察経験のある上原敬二から批判を受けることになります。そのため田村は海外視察の必要性を感じて内務省衛生局嘱託を辞し、1923(大正12)年4月に旅立ちます。しかし同年9月には関東大震災が勃発し経済状況が悪化、田村は翌年に帰国しても嘱託復帰が叶わず、1925(大正14)年には国立公園の調査も未完のまま打ち切りになってしまいました。

田村剛を批判し、海外視察のきっかけを作った上原敬二

1-5.国立公園の再始動

1927(昭和2)年、尾瀬や中禅寺湖などで水力発電が計画され、風景地の破壊が問題視されるようになります。また経済審議会は外貨獲得のための観光地整備を提言し、新聞社は日本新八景を提唱します。北海道では狩勝峠が八景に選ばれました。こうして保護と利用の観点から国立公園の必要性が論じられるようになりました。これらの流れの中で同年7月に田村は再び衛生局嘱託に任じられています。

八景に選ばれた狩勝峠

1-6.国立公園指定の実現

1930(昭和5)年には閣議で国立公園調査会が設置され、1931(昭和6)年4月には国立公園法が制定されます。1932(昭和7)年には阿寒以下12ヶ所の国立公園正式候補地が決定されました。それに基づき1934年(昭和9)年に国立公園指定が行われ、阿寒国立公園は12月4日に指定されたのです。

2.阿寒が世に出たのはなぜか。~北大教授・新島善直の紹介~

田村剛は国立公園の選定に際し、北海道はどこにするか迷っていました。そんな田村に助言を与えることになったのが、北大教授・新島善直だったのです。新島善直は造林学と森林保護学研究のため3回も外遊しており、1912(明治45)年から22年間にわたり野幌林業試験場長を務めています。田村は師である本多博士の紹介で新島に出会い、阿寒湖の名を聞いたのでした。これにより種市佐改氏は、「阿寒を世に出したのは新島善直北大教授ということができる」(種市佐改『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、48頁)と評しています。

国立公園選定の際、田村剛に阿寒のことを教えた新島善直

3.弟子屈が阿寒国立公園に内包された理由

阿寒が国立公園の候補地になった当初、弟子屈の屈斜路湖や摩周湖、硫黄山は含まれていませんでした。なぜ「阿寒」国立公園に弟子屈も内包されることになったのでしょうか。それには地元の指定運動の盛り上がりや国立公園調査委員の招待旅行がありました。

3-1.釧路での指定運動の盛り上がり

1927(昭和2)年10月21日、釧路保勝会が発足します。この会は釧路国支庁長・守屋癸清と釧路土木事務所長・永山在兼との協議により生まれたものでした。この会の目的こそが、阿寒湖を中心とした小範囲のものから、屈斜路湖や摩周湖を含めた大公園しようとするものでした。

1931(昭和6)年4月1日、国立公園法が制定されることになりますが、これと前後して釧路地方の指定運動は爆発的な盛り上がりを見せることになります。1931(昭和6)年2月、釧路市議会議員連署の国立公園実現促進の議会請願が実施されます。3月には釧路商工会議所も陳情書を提出します。同じく3月、屈斜路湖や摩周湖なども国立公園にして欲しい旨が請願され、衆議員請願委員会で採択されます。

そして6月には国立公園調査委員を招待し、摩周湖や屈斜路湖も見てもらい、国立公園指定を確実なものにしようという大会議が開催されたのです。この会議の結果、調査委員の招待と調査コースが決定されました。

さらに、釧路新聞遠藤社長により阿寒国立公園期成同盟会が創設されることになりました。期成同盟会の会則にはその目的として、屈斜路湖及び摩周湖付近を抱擁する地帯を国立公園に指定することの実現を図ることが掲げられていました。国立公園調査会が阿寒湖を中心とする小範囲な国立公園を対象としていたのに対し、総力を挙げて摩周湖や屈斜路湖を含めた国立公園の実現を悲願としていたのです。

釧路土木事務所長として活躍した永山在兼

3-2.田村博士を単独招待

国立公園調査会委員の招待が決まりましたが、肝心かなめの内務省衛生局の田村剛が招待旅行に参加できないと言い出します。なんとしてでも田村に来てもらい摩周湖、屈斜路湖を見せ阿寒国立公園に編入してもらわなければなりません。そのため田村単独で、まるで殿様のような待遇で持てなすこととなりました。来釧した田村に対し、佐藤釧路市長、吉村支庁長、近藤営林区署長、阿部運輸事務所長、吉島タイムス支局長という最高のスタッフを揃えます。

1931(昭和6)年6月26日札幌からの夜行列車で釧路駅に到着した田村は駅長室で休憩した後、10時5分発の釧網線で弟子屈に向います。弟子屈駅からは自動車で摩周湖・硫黄山・川湯・屈斜路湖を視察し鐺別温泉に宿泊、翌27日は阿寒へ向かい28日の夜行列車で離釧しました。

国立公園調査委員の招待旅行に尽力し、成功の一端を担った近藤直人

3-3.国立公園調査会委員招待旅行

田村の来釧の1か月後の1931(昭和7)年7月、いよいよ調査委員の本隊が視察にやってきます。調査委員のコースは1日目が弟子屈にあたっていました。釧網線で川湯駅に下車すると、10数台の自動車を連ねてエゾイソツツジの咲く硫黄山を見物します。川湯を経て仁伏から4隻の船に分乗して屈斜路湖を周遊、和琴からは自動車で摩周湖を訪れ、弟子屈温泉で第一夜を過ごしています。天候に恵まれたらしく摩周湖では日本一!との声が上がったとされています。

三日間に渡る豪華な接待旅行は大成功に終わり、その後の国立公園候補地の選定で阿寒は常に優位を占め、摩周湖や屈斜路湖の編入にも成功しました。

以上のように地元による熱心な指定運動や、国立公園調査会委員の招待旅行により、阿寒湖だけでなく屈斜路湖や摩周湖、硫黄山といった弟子屈地域も国立公園となったのです!

硫黄山を楽しむ国立公園調査委員

自然を楽しむ国立公園調査委員

4.弟子屈での国立公園指定運動

4-1.弟子屈におけるエネルギッシュな活動

国立公園指定の機運が高まると、釧網線敷設の動きと合わせて、自動車の出現とそれによる道路の改良、新道開発が求められるようになります。

弟子屈の人々は陳情運動を行いエネルギッシュに活動しました。この時に活躍した人物としては、丸米旅館を継いだ土沼助吉、子宝ホテルの中野高十、大正末まで川湯で唯一の温泉宿を守り通した五月女十次郎、木材から自動車事業へと転身して商才を発揮した舘徳蔵などが挙げられます。これを行政的に支えたのが村長・細川政雄(任1922~1929)と釧路土木派出所長・永山在兼(任1918~1930)でした。彼らの運動は次の村長・青木貞行の時に結実することになりました。

丸米旅館の土沼助吉とソデ

子宝旅館の中野高十

大正末まで川湯温泉で唯一の旅館を守り通した五月女十次郎

商才を発揮した舘徳蔵

4-2.交通インフラの整備

釧網線は1921(大正10)年に起工され、竣工予定は1926(大正15)でした。しかし度々延期されたため、速成運動が起こります。これを受け別保(東釧路)~標茶間は1927(昭和2)年、標茶~弟子屈間は1929(昭和4)年、弟子屈~川湯間は1930(昭和5)、そして1931(昭和6)年に全線が開通したのです。

1918(大正7)年に釧路土木派出所長に就任した永山在兼は、1920(大正9)年に大雨で弟子屈~釧路間の道路が寸断されると、同年中に屈斜路~美幌間の道路を建設して食料補給路を確保するなどの業績を上げていました。そんな永山は1927(昭和2)年に道路計画を発表します。その計画に、弟子屈から摩周湖への観光道路と阿寒横断道路が含まれていたのです。弟子屈~摩周湖間は1929(昭和4)年に、阿寒横断道路は1930(昭和5)年に完成します。

上記で国立公園調査委員会の招待旅行について述べましたが、まさに彼らは完成したばかりの鉄道と道路を利用して、弟子屈を周遊したのです。

美幌峠

摩周湖への観光道路

阿寒横断道路

弟子屈駅(昭和10年頃)

川湯駅(昭和5年)

4-3.弟子屈村長・青木貞行(任1929~1943)

弟子屈町の役場の前には「風雪の碑」があり、二人の人物の顔のプレートが掲げられています。一人は弟子屈の営農指導と移民導入に貢献した小田切栄三郎。もう一人がこの青木貞行です。青木貞行は富山県より弟子屈に入植した第1次移民であり、細川政雄に次いで弟子屈村の村長となりました。青木村長の時代に弟子屈は大きく発展することになりました。

青木貞行は村長就任後、細川氏の政策を継承し、阿寒横断道路完成(1930)、釧網線全通(1931)、阿寒国立公園指定(1934)などを達成します。そして観光立村を目指して温泉をはじめとする観光資源の整備に尽力するのです。補助移民の受け入れにも努力し、寒地主畜農業を振興させ、共同牧場を実現させました。

こうして青木貞行は昭和戦前期において弟子屈村の発展に貢献したため、現在まで顕彰されています。しかしながら村政の末期には、戦時下において備蓄米に手を付けていたことが明るみなってしまいます。青木貞行は食料統制法に触れたとして監獄に送られ、出所後に亡くなっています。

役場前の「風雪の碑」で顕彰されている村長・青木貞行

5.まとめ

以上、阿寒摩周国立公園から弟子屈の歴史にアプローチしました。

まず日本においてどのように国立公園が成立したのかを、日本史全体での流れの中で概略しました。続いて阿寒国立公園を具体的事例として取り上げました。国立公園の調査、選定を行った中心的な人物として内務省衛生局の田村剛が挙げられますが、阿寒を認識していなかった田村にその存在を教えたのが、北大教授・新島善直でした。

また当初、阿寒国立公園には摩周湖も屈斜路湖も硫黄山も含まれていませんでした。そのような中で、地元釧路から国立公園指定運動が盛り上がり、調査委員の招待旅行まで開催することになります。この招待旅行が大成功し、弟子屈地域も含んだ上で阿寒国立公園が成立したのです。

そして弟子屈においてもエネルギッシュな陳情運動があり、交通インフラの整備や国立公園指定に向けての活動が見られました。運動の担い手として丸米旅館の土沼助吉、子宝ホテルの中野高十、川湯温泉の五月女十次郎、商才を発揮した舘徳蔵などがおり、村長・細川政雄と釧路土木派出所長・永山在兼がこれを支えました。これらの運動は青木貞行村長の時に結実し、昭和初期において弟子屈は飛躍的な発展を遂げることになりました。

このように阿寒国立の指定は、弟子屈の歴史に大きな影響を与えたのです。

参考文献

<町史>

  • 更科源蔵編『弟子屈町史』弟子屈町、1949
  • 弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、1981
  • 弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、2005

<100年記念誌>

  • 弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」弟子屈町、2004

<商工会誌>

  • 弟子屈町商工会編『弟子屈町商工のあゆみ』弟子屈町商工会、1981

<国立公園関係>

  • 種市佐改「阿寒国立公園物語」『阿寒国立公園指定40周年記念誌』、阿寒国立公園広域観光推進協議会、1974年、1-48頁
  • 種市佐改『ざつ学・道東の旅と観光』釧路市、1981年
  • 種市佐改『国立公園指定50周年記念 阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984年
  • 一般財団法人自然公園財団『阿寒国立公園パークガイド阿寒・摩周』初版、一般財団法人自然公園財団、2010年
  • 岡野隆宏「わが国最初の国立公園選定の際の風景評価」ランドスケープ研究(オンライン論文集)6巻、2013年、18-24頁
  • 一般財団法人自然公園財団『阿寒国立公園パークガイド阿寒・摩周』2版、一般財団法人自然公園財団、2014年
  • 水内佑輔・古谷勝則「大正期における田村剛の示す国立公園の風景とその変遷」ランドスケープ研究77巻5号、2014年、413-418頁
  • 水谷知生「大正期の16 国立公園調査地の選定経過と田村剛の国立公園観」ランドスケープ研究(オンライン論文集)7巻、2014年、67-74頁
  • 石川孝織編著『阿寒国立公園指定80周年記念 阿寒国立公園と硫黄鉱山』釧路市立博物館、2015年
  • 水内佑輔・古谷勝則「帝国議会と行政の関係をふまえた国立公園行政の開始に関する研究」ランドスケープ研究(オンライン論文集)9巻、2016年、63-71頁
  • 水内佑輔・古谷勝則「1930年代の国立公園の選定の経緯と田村剛の評価の枠組み」ランドスケープ研究(オンライン論文集)9巻、2016年、103-114頁
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更新日:2024年05月22日