原野の詩人・更科源藏
更科源藏(1904-1985)は弟子屈町熊牛原野出身の文学者、北海学園大学アイヌ学講座教授。「原野の詩人」と呼ばれる。作品の根底には、青年期まで熊牛原野で過ごした開拓農家の生活とアイヌの方々との交流体験が根差している。
第3回北海道文化賞(1951)、北海道文学館初代理事長(1967)、第18回NHK放送文化賞(1967)、第22回北海道新聞文化賞社会文化賞(1968)、札幌市芸術文化功労賞(1977)。

更科源藏(1904-1985)
生涯
少年時代
生い立ち
更科源藏は明治37年(1904)1月27日に弟子屈村字熊牛原野31線西1番地で生を受けた。出生届は吹雪により提出が遅れ戸籍では2月15日になっている。父・更科治郎と母・ヨリは新潟県から移住した開拓農家で源藏には3人の兄と5人の姉がおり、9人兄弟の末っ子であった。

父・治郎

母・ヨリ
学齢期
明治43年(1910)、源藏は学齢期になったが弟子屈小学校までの片道8キロメートルの道のりは子どもの足では遠かった。そのため長姉テリの嫁ぎ先にある北見小清水教育所に入学することとなった。だが源藏は馴染むことができず1週間で弟子屈に戻ることになり、弟子屈小学校に通えるようになったのは数え年で9歳になってからであった。
御料局小使い
大正8年(1919)3月、源藏は弟子屈小学校補習科を終える。当時弟子屈の多くの土地は、明治30年(1897)に宮内省御料局の御料農地に編入されており、札幌農学校出身の小田切栄三郎所長が移民の入植と営農指導を行っていた。源藏の父・治郎はそれよりも早い明治23年(1890)に入植した開拓農家の草分けであったので、小田切栄三郎とも関係性が深かった。そのため源藏は御料局の職員に誘われることとなる。
だが源藏は進学への思いもあり、御料局に勤めることにはなったが職員ではなく小使いを選んでしまう。源藏は国民中学講義録で勉学を重ねながら、御料局での勤務中に知り合った郵便局員岡本清一と親交を結び文学的な刺激を受けた。

麻布獣医畜産学校時代
進学と詩への目覚め
大正9年(1920)、更科家は郵便逓送を請け負うようになり月給95円が支給されたため、
源藏は進学できることとなり翌年4月、源藏は無試験で入れる東京の麻布獣医畜産学校に入学した。
夏休みに帰省した源藏は幼くして死んだ姉ミヨの墓参りをする。そこに咲いた百日草の花を見て感情を動かされた源藏は「百日草」という題で初めての詩を綴った。
結核による休学とその後の退学
大正11年(1922)、源藏は結核に冒される。夏休みの帰省中、お盆過ぎに喀血した源藏は休学することとなった。源藏は療養しながら同人誌『リリー』を刊行し、上記「百日草」の詩を載せている。翌大正12年(1923)、源藏は復学するも留年したこともあって勉学に身が入らなかった。さらに獣医学についても解剖用の家畜がモノのように扱われることに反発を覚え、関東大震災ののち退学して帰郷することとなった。

青年時代
詩人デビュー
学問に挫折し弟子屈に戻った源藏は職を転々とすることになる。最初は羊の飼育を始めるが冬の寒さで大半を死なせてしまう。大正13年(1924)の兵隊検査の時には周囲が丸坊主にして身体を整える中一人だけ長髪で現れ、丙種となった。源藏はその足で上京しており、残された同級の者たちは代わりに絞られたため反発を覚えたというエピソードが残っている。
上京した源藏は農本思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)の紹介で詩人・尾崎喜八と知己を得た。だが計画していた詩と版画の雑誌の仕事は上手くいかず、結局は出戻り、標茶の虹別鮭鱒孵化場の臨時雇いとなった。それでも源藏は尾崎喜八に詩を送って指導を受けており、大正14年(1925)には彼の選で詩誌『抒情詩』新人推薦号に4位で入選する。題名は「栄光の秋」であった。

小田切栄三郎の庇護と北大畜産教室
御料局長であった小田切栄三郎は大正9年(1920)に札幌支局へ栄転となったが、間もなく休職し弟子屈に戻ってきていた。小田切は札幌にも家があり、源藏は世話を受けながら北海道帝国大学の畜産教室で製革実習を学ぶことになる。また弟子屈の鐺別温泉には小田切の邸宅があり、そこに居住させてもらって製革の仕事を受け、昭和3年まで続けた。
その間も源藏は文学活動を続け各地を渡り、『港街』(改題して『至上律』)を出版したり東京にある本郷駒込の高村光太郎のアトリエを訪れたりした。

代用教員~南弟子屈と屈斜路~
昭和4年(1929)、源藏の生家のある熊牛(南弟子屈)の特別教授場が小学校に昇格した。そのため元々いた教員が資格講習を受けることとなり、留守の間の源藏が代用教員となった。この年は弟子屈まで釧網線が開通し、源藏は子どもたちと提灯行列に参加したり、汽車を題材とする教室空間をテーマに詩を書いたりしている(後述する『種薯』所集「代用教員の詩」)。
昭和5年(1930)、1月に詩誌『北緯五十度』を創刊した源藏は、今度は屈斜路コタンの代用教員となる。ここではアイヌの方々と深く交流することとなり、後の文学作品に影響を与えた。そしてこの年には第一詩集『種薯』が刊行され、これを機に中嶋はなゑとの交際が始まった。
昭和6年(1931)、源藏は中嶋はなゑと結婚したが学校で問題を起こす。皇国史観に基づく蝦夷討伐の記述に異を唱えたため視学の不興を買い職を解かれたのであった。


コタンでの生活と木彫り民芸の挫折
源藏は兄・勝治のもとへ身を寄せるが、昭和7年(1932)には長女・道子が誕生する。熊牛原野で蔬菜園芸に始めたところ、屈斜路尋常小学校が尾札部小学校と合併して空き家になったとしてコタンの人々から迎えが来て戻ることになった。
屈斜路は昭和9年(1934)に誕生する阿寒国立公園に内包されることとなるのだが、源藏がコタンに移った時にはほぼそれが内定しており、釧網線や阿寒横断道路の開通もあって観光客が増え始めていた。そのため源藏は観光客に木彫り民芸を売ることで生計を立てようとしたのである。この間、源藏はアイヌの方々とさらに親交を深め、後に刊行される『コタン生物記』(北方出版社、1942)の基礎となった。
印刷屋経営と左派弾圧
昭和9年(1934)コタンでの木彫り民芸では生計が成り立たなかった源藏は弟子屈市街地へ移り、今度は印刷屋を始める。仕事の傍らで近水ホテルの設計監理を担った建築家・田上義也と知り合ったり、弟子屈尋常小学校開校30周年記念式典に際し同窓生で竹馬会を組織したりした。昭和10年(1935)には札幌グランドホテルで開かれた旧土人保護施設改善座談会に協議員として出席、後に北大名誉教授となる高倉新一郎と初めて出会った。
しかしこの印刷屋も長くは続かない。父・治郎が種牡牛に突かれて死亡するという不幸がある中、左派弾圧を受け取り調べを受けることになる。釧路警察署に連行された源藏だが、翌昭和11年(1936)には特高にも取り調べを受けた。昭和天皇が10月の陸軍特別大演習を統監するため来道することになると弾圧は激しくなり、源藏は東京に逃れた。
妻・はなゑの死と札幌転出
帰郷後、源藏は印刷所を売り払い牛飼いとして再出発しようとした。昭和12年(1937)には次女・葉子が誕生するが、昭和14年(1939)に妻・はなゑが肺炎を悪化させ死亡してしまう。失意にかられた源藏は弟子屈村役場で日給2円の畜産係に勤めるが、昭和15年(1940)に退職。次女・葉子を母・ヨリと姉・サクに預け、長女・道子を連れて札幌へ転出した。
札幌時代
『コタン生物記』の刊行(昭和17年版)
札幌でも源藏は職を転々とする。最初はSK写真工房に勤めるが昭和16年(1941)に辞職。次いで高倉新一郎の世話で北海道帝国大学の嘱託となるがこれも昭和17年(1942)には辞め、『北方文藝』の編集に携わった。この時源藏は、かつて屈斜路コタンに居住していた際に得た古老・弟子勘次の聴き書きをもとに『コタン生物記』を刊行した。(のち『コタン生物記』は完全版三巻本として1976年に発行を開始する)

太平洋戦争と源藏
北大嘱託職員を辞めた源藏は北海道農会に職を得た。そこでは「北方農業」の編集をすることになる。昭和18年(1943)には農会から推薦され、北海道牛羊畜産組合連合会の主事となり、北海道畜産史の編集に従事することになった。この畜産史は昭和23年(1948)に編集中止になってしまうが、戦争中の交通統制下の中で公務出張として移動ができる利点があった。
同年、源藏は内閣情報局の詩人・佐伯郁郎の力添えにより詩集に戦争詩を入れることで、第二詩集『凍原の歌』を刊行することができた。だが戦争終結後、この詩集を出したことにより戦争協力者として見なされてしまい戦争犯罪者との批判を浴びることとなった。
これに対し源藏は昭和21年(1946)に詩誌『野性』を創刊、巻頭言で「〔……〕欺瞞をゆるしたのは誰でもない又吾々ではなかったか、それは文化のひくさの表れではなかったか」と戦争への反省を述べ、「戦火にも焼けず、爆撃にも破壊されなかった詩精神の発見と真に美しい力あふれる祖国建設を夢見て各々の詩業をけんじやう」と決意を新たにしている。

後妻をむかえる
詩誌『野性』を刊行した昭和21年(1946)、版画家・川上澄生の義妹を後妻にむかえる。昭和22年(1947)には母・ヨリを亡くすが出版社青磁社に勤め、昭和23年(1948)に長男・光が、昭和24年(1949)には次男・順が誕生した。またこの年源藏は『弟子屈町史』を発刊した。川上澄生と組んで『北海道絵本』も刊行している。

アイヌ研究・第三詩集『無明』・自治体史の編纂
昭和25年(1950)、源藏は北海道図書館およびNHK札幌放送局の嘱託になった。高倉新一郎の好意で資料と場所の提供を受け、文化調査で各地のコタンを渡り歩く。
昭和26年(1951)にはその研究が評価され、第3回北海道文化賞を受賞した。その後、源藏は多くの著作を記し、第三詩集である『無明』を出版、道内各地の自治体史の編纂を引き受け、アイヌ関係の書籍を刊行した。
昭和33年(1958)、皇太子時代の上皇(明仁)陛下が来道した時には会談「皇太子殿下を囲んで-北海道の今昔を語る」に参加し北海道の歴史や開拓、アイヌの方々の現状を話している。

社会的栄誉
昭和41年(1966)、源藏は「北海道文学展」を開催する。源藏は北海道の文献・資料が散逸していくことを危惧しており、資料の収集の必要性を感じていた。そこで実行委員を立ち上げ、資料収集に奔走し、札幌の百貨店で公開したのが「北海道文学展」であった。
この文学展は社会的な評価を得て、一時的な展示ではなく常設展示ができる文化施設が求められることとなった。これを受け昭和42年(1967)に「北海道文学館」が設立され、源藏は初代の理事長となる。
この年には「アイヌ民族の文化遺産に関する放送資料の収集活動とその指導」により第18回NHK放送文化賞を受賞。さらには北海学園大学アイヌ学講座教授となった。昭和43年(1968)には「北方文化の研究と普及」によって第22回北海道新聞文化賞社会文化賞を受賞した。
昭和52年(1977)には第22回文化庁芸術祭のラジオ部門ラジオ合唱曲の部において、更科源藏作詞・広瀬量平作曲の混声合唱組曲「海鳥の詩」が優秀賞に輝いた。またこの年、札幌市芸術文化功労賞として表彰される。さらに弟子屈町においては新築された弟子屈町役場前の広場に詩「雲」を刻んだ文学碑が建立されたのであった。
晩年
昭和58年(1983)から原野シリーズの刊行が始まる。源藏が先祖のルーツを説き起こし、父母の時代から自己の青年時代までを描いた自伝的小説である。『父母の原野』(1983)、『おさない原野』(1984)、『少年たちの原野』(1984)が次々と刊行され、昭和60年(1985)には『移住者の原野』の連載が始まった。
だがこの時、源藏は昭和44年(1969)に第一法規より刊行された『アイヌ民族誌』掲載の写真について肖像権侵害として訴えられ裁判に発展していた。源藏は昭和60年(1985)9月25日に脳梗塞のため息を引き取った。享年81歳であった。
裁判には高倉新一郎が出ることになり、昭和63年(1988)全面的に謝罪し和解が成立した。また原野シリーズについては原稿が完成していたため、その死後にも刊行は続き、『移住者の原野』(1986)、『青春の原野』(1987)が出されて完結した。

原野シリーズ
主要参考文献
更科源蔵編『弟子屈町史』弟子屈町、1949
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、1981
弟子屈町商工会編『弟子屈町商工のあゆみ』弟子屈町商工会、1981
森川勇作『原野の中の更科源蔵』弟子屈會、1994
更科源藏文学賞の会編『熊牛原野から』更科源藏文学賞の会、2003
財団法人北海道文学館編『更科源藏生誕100年 北の原野の物語』北海道立文学館、2004
更科源藏文学賞の会編『熊牛原野から』第2号、更科源藏文学賞の会、2004
弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」弟子屈町、2004
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、2005
弟子屈町教育委員会編『原野紀行』更科源藏文学賞の会、2009
弟子屈町教育委員会編『郷土学習シリーズ5 南弟子屈 農業開拓のはじまり』弟子屈町教育委員会、2010
弟子屈町教育委員会編『原野紀行2』更科源藏文学賞の会、2011
弟子屈町教育委員会編『原野紀行3』更科源藏文学賞の会、2013
弟子屈町編『原野の詩人 更科源藏物語』弟子屈町教育委員会、2015
弟子屈町教育委員会編『原野紀行4』更科源藏文学賞の会、2015
更科源藏文学資料のご利用につきまして
更科源藏の資料に関するお問い合わせは、弟子屈町図書館で対応しております。
弟子屈町図書館のご連絡先
- 〒088-3211
- 住所:北海道川上郡弟子屈町中央2丁目4番1号
- 電話番号:015-482-1616 ファクス:015-482-1617
- web:弟子屈町図書館公式ホームページ
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更新日:2024年04月04日