弟子屈町の歴史とあゆみ
開拓のはじめ

今から150年前北海道の名付親である松浦武四郎が、この地を探検したころの弟子屈町内は、弟子屈や屈斜路湖畔にわずか17戸のアイヌの人々が住む、昼なお暗い大原生林地帯であった。
町内に近代をもたらしたのは硫黄山の硫黄鉱石で、明治10年から採鉱を始めた佐野孫右衛門は、釧路川に沿う輸送路を拓き、馬400頭を導入してこの地に活況を与え、明治18年には本山七右衛門が初の定住者として弟子屈に温泉宿(現摩周パーク)を開設、翌年には現ホテル丸米の前身も開業して、観光弟子屈の先駆をつとめた。

更に明治20年安田財閥の祖である安田善次郎は、硫黄山・標茶間に北海道でも2番目という鉄道を建設し、大量生産・大量輸送を実施したが、乱掘によって資源が不足し、わずか9年で幻のように消えて行った。しかし、この鉄道の縁で更科治郎が明治23年熊牛原野に入植し、町内の農民第1号として開拓の鍬を下ろした。
弟子屈村の誕生
硫黄採掘が中止され鉄道も廃止された町内は、急速に寂れる運命にあった。だが、幸いなことに明治30年町内の大部分が皇室の御料林に指定され、翌31年には北海道開拓史に残る農業指導者小田切栄三郎が、御料局川上派出所長として弟子屈に着任した。
小田切は開拓地の暗いランプの下で「土地がやせ、そのうえ寒冷地で交通が不便なこの地方では、穀物を主とした農業よりも、畜産を加えた混同農業が有利」という川上御料農地開拓設計書をまとめ、これを実践した。
農事試験場で適地作物を研究した小田切は、第一次移民として雪国で忍耐力の強い富山県民にスポットをあて、明治32年50戸を当別・仁多地区に迎え、以後大正8年まで11回にわたって各地から積極的に移民を導入した。当町が当時の熊牛村から分村し、弟子屈外1村戸長役場が設置されたのは明治36年であるが、これは大地に根ざした移民たちの開拓のおかげである。
なお、小田切は子馬が生まれたら移民に与えるという貸馬仔分法を実施して、馬耕や肥料の自給を奨励し、牛や羊までも導入して積極的に混同農業を実践した。現在道東地方は全国一の酪農王国となっているが、そのルーツはわが弟子屈町にあるといっても過言ではない。


発展する弟子屈村
移民が増加して農業基盤が固まりつつある明治38年から40年にかけて、釧路と苫小牧に製紙工場が完成した。無尽蔵と言われた町内の森林が注目され、釧路川という太いパイプによって盛んに釧路港に流送された。
このようにして以後長い間、町の経済を支えた木材業の繁栄と共に人口も増加し、農民は冬山造材で現金収入を得ると共に木材運搬用に馬の需要が増加し、飼料としてエンバク・牧草等適地産物の供給も増加するという波及効果をもたらし、当地の農業は寒冷地にありながら、「川上に不作なし」と言われる安定経営ができるようになってきた。

一方、弟子屈・川湯温泉で細ぼそと営業を続けてきた観光にも陽があたってきた。姉妹町である鹿児島県東市来町出身で、釧路土木事務所長の永山在兼が大正末に美幌峠や屈斜路回遊の道を拓き、昭和になってからは摩周湖への道と難路横断道路を開削して周遊観光ルートを完成させ、昭和6年には現JR釧網線が全通して、鉄道とバスの結合輸送が確立した。
加えて昭和9年の阿寒国立公園の誕生により、摩周湖・屈斜路湖・硫黄山という天与の観光資源が全国的にPRされ、豊富な温泉と恵まれた交通網によって観光客が増加し、弟子屈・川湯をはじめ、当別・仁伏にも旅館が増設されて、道東観光の中心拠点の座を不動のものとした。


わが町いま、未来
戦中・戦後の苦難を経て、わが町も大幅に変化した。かつての御料林と農地は営林署と農民へ移管され、林業は造材から造林へ、農業は馬を主とした混同農業から、牛が主体の酪農へと変身した。
映画「君の名は」と高度経済成長によって空前のブームを招来した観光産業も、テンミリオン計画による海外旅行の激増や、大型リゾート開発等によって、大きな転換点に立たされるようになってきた。
そのため美しい自然を保護しながら活用するという国立公園法の本旨を尊重し、新時代観光への布石を着々と実現している。
釧路圏摩周観光文化センターを核とした文化と健康づくり滞在型基地建設、豊富な温泉熱をフルに利用した快適な町づくりと産業育成、それに知床・釧路湿原国立公園や、網走国定公園・厚岸道立自然公園等との連携を強化した広域観光圏づくりであり、その中心に位置する観光弟子屈の地位向上等である。
21世紀は余暇・多様化の時代であるという。しかし永遠に不動なものは美しい自然と、あたたかい心のふれあいであろう。国内第一級の自然観光資源を持つわが弟子屈町は、未来に向かって平凡ではあるが最もむずかしい、あたたかい心のある町づくり、観光地づくりに邁進している。
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更新日:2023年06月06日