【実施報告】学芸員講座「阿寒国立公園から見る弟子屈の歴史」(2024/06/17)

学芸員講座を実施しました

令和6年(2024)6月17日(月曜日)、弟子屈町公民館において学芸員講座「阿寒国立公園から見る弟子屈の歴史」を実施しました。

本講座は阿寒摩周国立公園90周年記念するために開催。講師は本町ふるさと歴史館の津久井薫主任・学芸員が担当しました。日本における国立公園の成立過程を紹介した上で、なぜ阿寒が国立公園になったのか、弟子屈ではどのような活動が行われたのかを丁寧に解説しました。

講座内容

日本の国立公園成立過程

国立公園は明治日本の近代化の過程で都市計画の必要性と共に議論が発生。内務省衛生局は1920年に田村剛を嘱託とし、国立公園を政策課題とします。調査が進んでいきましたが1923年に関東大震災が発生したことで経済状況が悪化し、公園行政も停滞します。しかし1927年になると水力発電による景観地の破壊、外貨獲得のための観光地整備、新聞社による日本新八景などの動きから国立公園の必要性が再び論じられるようになります。同年、田村は再び内務省衛生局の嘱託に復帰。調査や法律の整備を進め、1934年ついに国立公園が誕生し、阿寒国立公園は12月4日に大雪山・日光・中部山岳・阿蘇と共に指定を受けました。

釧路や弟子屈における人々の運動

田村剛が阿寒を国立公園の候補地としたのは北大教授・新島善直の影響によるものでした。さらに屈斜路湖・硫黄山・摩周湖などの弟子屈地域まで阿寒国立公園に内包されたのは地元・釧路での運動の盛り上がりがあったからです。国立公園調査会委員を招待旅行に呼ぶなどして高い評価を受けました。

弟子屈の住民たちは国立公園の機運が高まる中でエネルギッシュに活動していきます。インフラ整備の陳情や観光地として発展のために力を尽くし、それを村長・細川政雄と釧路土木派出所長・永山在兼が支えていきました。これらの努力は青木貞行村長のもとで結実します。青木村長は富山県から入植した第一次御料移民であり弟子屈のために尽力しました。

こうして弟子屈が阿寒摩周国立公園となった背景には人々の奮闘と努力の積み重ねがあるのでした。先人たちの思いを継承しながら、新たな阿寒摩周国立公園の魅力を磨きだし、次世代にも繋げていきましょう!

講座の様子

講座の様子
講座の様子

スライド

この記事に関するお問い合わせ先

ふるさと歴史館(教育委員会 社会教育課)
〒088-3201
北海道川上郡弟子屈町摩周3丁目3番1号
摩周観光文化センター内
電話番号:015-482-2368(ファックス共通)
お問い合わせフォームはこちら

更新日:2024年06月18日