旧営林署の歴史 ~「御料局」から「複合型地域観光交流拠点」へ~

令和5年(2023)8月、弟子屈町中心市街地再構築事業により旧営林署が解体されました。この建物は昭和39年(1964)9月30日に竣工した第三代庁舎で、明治30年(1897)の御料農地編入から始まる弟子屈の発展の象徴とも言うべき存在でした。ここでは、その歴史的価値を振り返っていきましょう。

営林署の前身「御料局」とは何か

弟子屈町中心市街地再構築事業により「複合型地域観光交流拠点」となる土地には旧営林署が置かれていましたが、その前身は「御料局」(帝室林野管理局/帝室林野局)でした。では「御料局」とは一体何なのでしょうか。

明治維新を経て天皇を頂点とした国家が形成されました。しかし自由民権運動を受け帝国議会が作られることになります。このため議会に左右されない独立した皇室財源の確保が求められるようになります。これにより、明治18年(1885)宮内省に皇室領地を管理する御料局が設置されました。

明治23年(1890)には、北海道内の官有地200万町歩が御料地となり、弟子屈御料地は宮内省御料局札幌支庁川上出張所の所管で発足しました。しかしながら広大過ぎる御料地はかえって開発の障害になるとされ、明治27年(1894)には北海道の御料地137万町歩が返還されることになります。また弟子屈御料地は明治30年代に至るまで空白状態でした。

御料局設置を伝える官報

弟子屈御料地の展開

北海道において御料農地の開発に力を入れたのが、岩村通俊でした。

岩村は明治19年(1886)~明治21年(1888)にかけて道庁長官を経験した人物であり、明治24年(1891)~明治37年(1904)には御料局長官を務めます。それ故、岩村は北海道の開発を視野に入れていました。上述したように明治27年(1894)には御料地返還があり、最終的には台帳面積63万町歩が御料地として残りましたが、このうちの農地適地の開墾を進めるため、御料農地の設置を試みます。

弟子屈御料地もこの流れの中に組み込まれ、明治30年(1897)熊牛・弟子屈・美留和・跡佐登の土地2000万坪が御料農地として経営されることが決まります。この年、札幌支庁には臨時農業課と臨時土木課が設置されました。また農地所在地には臨時農業派出所が置かれ、農地経営の体制が整備されました。しかし弟子屈では林業の機関である出張所に派出所が併置されたのです。

この派出所に所長として赴任してきたのが、札幌農学校第10期卒業生の小田切栄三郎でした。小田切氏は混同農業の優位性を唱えて営農に家畜を導入したり、自ら富山県に飛び入植させる移民を募集したりと農業指導者として弟子屈の農地経営に貢献しました。小田切氏の業績については別事にまとめてありますので、以下のリンクをご参照ください(⇒小田切栄三郎~弟子屈における農業経営の指導者~)

更科源藏と御料局(帝室林野管理局)

本町出身の文学者に「原野の詩人」と称される更科源藏という人物がいます。

更科源藏(1904~1985)は弟子屈町熊牛原野の農家出身の文学者で、北海道文学館の理事長や北海学園大学アイヌ学講座教授などを歴任した人物です。

更科氏は大正8年(1919)に弟子屈尋常小学校補習科を終えますが、弟子屈に上級学校はありません。そのため、御料局(帝室林野管理局)で用務員をしながら「国民中学講義録」で独学をする道を選びます。更科氏は勤務中に郵便局員と仲良くなり、文学雑誌や本を借りる関係になります。これにより更科氏は文学的に目覚めることとなったのです。

更科氏はこの後、上京して獣医畜産の勉強をしますが病気等のため挫折。弟子屈で職を転々とした後、札幌に転出します。様々な文芸活動で活躍した更科源藏でしたが、熊牛原野で過ごした日々や屈斜路コタンにおけるアイヌの古老との交流は、彼の文学に大きな影響を及ぼしました。
 

弟子屈御料地の変容

御料局の制度的変遷

明治23年(1890)に「御料局・札幌支庁・川上出張所」の所管で発足した弟子屈御料地。明治30年(1897)には御料農地の編入があり農業「派出所」が「出張所」に併置されました。

この後、弟子屈御料地は明治41年(1908)に「帝室林野管理局・札幌支庁」所管となり、大正13年(1924)には「帝室林野局・札幌支局」所管となりました。

前年の大正12年(1923)に第二代庁舎が新築されますが、この年村長の主導で小作解放が唱えられました。弟子屈の場合は小作農民の立場からの解放という側面は薄かったと考えられています。弟子屈では広大な御料農地が村の面積の多くを占めていたため、土地利用の際には許可が必要であり村の発展を阻害するという観点で御料農地の解放が求められたのです。

昭和4年(1929)小作解放により御料農地は払い下げられ、御料局(帝室林野局)は農政面とは切り離されましたが、林政面で本町の発展に寄与することになりました。戦時下の昭和18年(1943)には「旭川地方・帝室林野局」の所管となっています。

 

第二代庁舎(1923-1964)

戦後の林政統一

戦後になると林政改革が行われることとなります。

戦前の北海道の主な林野は(1)宮内省帝室林野局が経営する御料林と(2)内務省北海道庁が所管する国有林に分かれていました。しかし戦後改革で皇室財産は国有化され宮内省は無くなり、内務省も解体されます。そのため両者は農林省所管の国有林となりました。

こうして昭和22年(1947)4月1日から旭川営林局所管「弟子屈営林署」が誕生しました。さらに翌5月1日に所管替えがあり、帯広営林局の所管となりました。

大鵬と営林署

日本の有名な力士に第48代横綱大鵬(1940~2013)がいます。この大鵬は何と弟子屈高校定時制時代に営林署で働いていたのです。

大鵬は優勝32回 (うち全勝優勝8回、6場所連続優勝2回)を誇り、当時の子どもたちから「巨人・大鵬・玉子焼き」と親しまれました。また相撲だけでなく日本赤十字社に血液運搬車を贈るなど福祉活動にも貢献しています。その死後(2013年)には日本の高度経済成長期に国民的英雄として日本社会に夢と希望と勇気を与えたとして国民栄誉賞を受賞しています。

大鵬(納谷幸喜)は昭和15年(1940)、樺太で牧場を経営するウクライナ出身の貴族マルキャン・ボシリコと納谷キヨの間に生まれました。昭和20年(1945)のソ連の樺太侵攻により大鵬は母親に連れられ北海道へ引き揚げることになりますが、母の船酔いにより稚内で下船しました。この船はその後航行中に爆沈してしまったため大鵬は九死に一生を得ました。その後母キヨは教員と再婚。養父の転勤で昭和26年(1951)に川湯へ来ることになり、この地に腰を据えることになりました。

昭和31年(1956)、川湯中学校を卒業した大鵬は弟子屈高校定時制に入学しました。定時制ですので、昼間は働きます。大鵬は営林署に入りました。大鵬の仕事は苗植えと、その苗を刈り取らないように下草を鎌で刈る仕事でした。大鵬は大人が数日かかってする作業を1日でやってしまうなど、大活躍していました。営林署に勤めていたこともあり、大鵬の評判は広まっていきます。

同年夏、訓子府に相撲を見に行った大鵬はそのまま二所ノ関部屋に入門し、出世街道を歩み、故郷に錦を飾ることになります。

第三代庁舎と日本の林業の変容

大正12年(1923)に築造された第二代庁舎は経年による腐朽のため、昭和39年(1964)に第三代庁舎となりました。営林署は林政のみならず、本町の行政各般に渡って長い間寄与します。第三代庁舎にはテニスコートもあり、官舎なども充実していたため、現在でも多くの町民の記憶に焼き付いています。

こうして永遠に繁栄していくかのように見えた営林署でしたが、戦後日本は林業の転換点を迎えます。木材価格は高度経済成長に伴う需要増大等の影響で昭和55年(1980)にピークとなりました。しかし住宅建築構造の変化や輸入木材の導入などにより林業そのものの景気低迷が続きます。平成14年(2002)には木材自給率が最低になりました。

こうした情勢を受け、弟子屈営林署は平成11年(1999)根釧西部森林管理署に再編されることになり、暫定的に弟子屈事務所が置かれます。そして平成16年(2004)にはついに弟子屈事務所が廃止されることになり、明治30年(1897)の御料農地編入より続いてきた歴史に幕を閉じることとなったのです。現在は摩周駅の北側に根釧西部森林管理署の森林事務所が置かれています。

郷土資料収蔵庫「てしかがの蔵」

旧営林署は弟子屈の発展の象徴であったため、その跡地の利用について検討がなされました。その結果、庁舎部分を含む敷地の三分の二を町が取得することになりました。残りの三分の一は商工会が取得し、「コラーレ」という愛称の駐車場となりました。

町が取得した営林署旧庁舎の再活用の方法は様々な議論がありましたが、郷土資料収蔵庫「てしかがの蔵」として利用されることになりました。こうして平成19年(2007)から令和3年(2021)まで、弟子屈の歴史を伝える施設として役割を果たしたのです。

再開発による旧庁舎の解体

令和時代、弟子屈町では中心市街地及び川湯地域で再開発が行われることとなりました。令和5年7月、中心市街地再構築事業により旧営林署庁舎の解体工事が始まりり8月には更地になりました。かつての弟子屈の発展の象徴であった地は「複合型地域観光交流拠点」として新たに生まれ変わる予定です。図書館・プール・温浴施設として利用される予定になっています。

参考文献

<町史>
更科源蔵編『弟子屈町史』弟子屈町、1949
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、1981
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、2005

<100年記念誌>
弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」弟子屈町、2004

<小田切栄三郎関係>
渡辺源四郎『東北海道の人物』釧路日日新聞社、1926
若林功『北海道農業開拓秘録 第2篇』水産社、1942
北海道総務部文書課編『開拓につくした人びと 第4巻 (ひらけゆく大地 下)』理論社、1966
生井郁郎『育林技術の発展過程に関する研究1:旧弟子屈御料林における育種技術の実態分析』「北海道農林研究」第45号別冊、北海道立総合経済研究所、1974
酒井勉『風雪の群像 上:北海道農業を築いた人々』日本農業新聞北海道支所、1993
STVラジオ編『ほっかいどう百年物語 第8集:北海道の歴史を刻んだ人々』中西出版、2008

<旧営林署関係>
和田国次郎『明治大正御料事業誌』林野会、1935
『庁舎落成記念誌』弟子屈営林署、1964
『樹氷 10月号:弟子屈営林署新庁舎落成記念特集号(抄)』第14巻・第11号・12号、帯広林友会、1964
 

この記事に関するお問い合わせ先
弟子屈町教育委員会 社会教育課

〒088-3211
北海道川上郡弟子屈町中央2丁目3番2号
電話番号:015-482-2948 ファクス:015-482-2343

更新日:2023年11月15日