弟子屈町の獅子舞
弟子屈町指定の無形文化財として鐺別獅子舞と仁多獅子舞があります。
なぜ獅子舞が弟子屈町で無形文化財となっているのでしょうか?
この記事では鐺別獅子舞と仁多獅子舞の歴史について解説します。
獅子舞の始まり
弟子屈町における獅子舞の起源は、弟子屈神社が現在の場所に移され神殿が新しくなった時であり、明治37年(1904)に奉納が始まったとされています(『弟子屈町史』1949、126頁)。まず鐺別の人々が雌獅子を始め、翌年には仁多の人々が雄獅子を奉納しました。当時は獅子頭もなく箕(みの)を2枚合わせて口とし筵(むしろ)を胴にしていました。
獅子舞の奉納先の神社は明治25年(1892)、弟子屈駅の近くに建てられた豊川稲荷を起源としています。当時はまだ社(やしろ)というよりも祠(ほこら)のようなものでした。御料移民入植後の明治34年(1901)、神社は新市街の筏井氏の後ろの高台に移されるのですが、棒を通して担いでいける程でした。
新市街の高台に移設された豊川稲荷では、年々入植者が増え祭典が大規模になったことにより、場所や祠(ほこら)が問題となります。そのため町史では明治37年(1904)に現在神社がある土地を御料局から借り受けて移設し、神殿を新しくしたとされています。上述したように、この時鐺別獅子舞が初めて奉納されました。
いかにして獅子舞は富山から伝わったか
弟子屈の獅子舞は富山由来のものです。しかしなぜ富山なのでしょう。
明治18年(1885)に温泉宿を始め初の和人定住者となった本山七右衛門は石川出身。明治23年(1890)に自由移民として熊牛原野に入り和人農民第1号となった更科治郎は新潟出身。初期の農民団も更科治郎を頼りに熊牛原野にやってきた新潟の一団でした。本山七右衛門も更科治郎も富山県とは関係がありません。
富山から伝わった謎を探るべく、弟子屈の歴史を振り返ってみましょう!
弟子屈の近代は明治10年(1877)の硫黄採掘に始まりますが、収奪型産業であったため資源は枯渇し、明治29年(1896)に休鉱となります。硫黄山関係者達は熊牛原野の新潟団体の協力を受け亜麻会社を始めますが失敗に終わります。寂れゆく弟子屈に転機をもたらしたのが御料開拓だったのです。
硫黄山が休鉱となり亜麻会社の経営も不振に陥る中、明治30年(1897)弟子屈の原野2000万坪が御料農地に編入されます。御料局の派出所が置かれ札幌農学校出身の小田切栄三郎が着任します。彼こそが弟子屈の農業経営を指導し計画的な移民政策を行い、村落としての基礎を築いた人物でした。
明治31年(1898)入植準備を整えた御料局では小田切栄三郎自ら移民を求めに道外へと赴きます。小田切氏は雪国で寒さに強く忍耐力がある富山県民に焦点を当てました。こうして西砺波、上新川、射水の各郡から第一次移民50戸の募集に成功。翌明治32年、彼らは弟子屈に入植しました。
明治32年(1899)4月に富山県移民は伏木港を出発、1ヶ月かけて弟子屈に辿り着き、さらに1ヶ月の共同生活を経て土地を割り当てられます。上新川・西砺波から来た21戸は仁多川沿岸と釧路川左岸、射水郡29戸は鐺別川左岸に入植しました。これらの人々が故郷を偲び富山県の獅子舞を始めたのです。
郷土芸能の保存と無形文化財としての指定
昭和40年(1965)頃から、獅子舞は後継者難となります。過疎化と高齢化が進展したことが背景にあります。教育委員会は市街地の青年や弟子屈高校定時制の生徒に働きかけましたが、一時しのぎにしかなりませんでした。
そのため昭和44年(1969)にはついに仁多獅子舞が神社祭で奉納できなくなってしまうという状態に陥りました(『弟子屈町史』1981、870頁)。
こうして郷土芸能の消滅が憂慮されることになり、郷土芸能保存会が発足されました。また同時に保護が進められ、鐺別獅子舞・仁多獅子舞は昭和44年(1969)7月11日に町の無形文化財に指定されました(『弟子屈町史』1981、869頁)。
鐺別獅子舞は継承が続きましたが、仁多獅子舞については最後に奉納されたのは昭和63年(1988)との関係者証言があります。その後、仁多獅子舞は平成24年(2012)から復元の機運が生まれ、平成28年(2016)から復元のための定期練習が行われるようになりました。
発祥地調査
昭和56年(1981)10月28日~11月2日、富山県内で弟子屈町の獅子舞のルーツ探しが行われました。富山県内には獅子舞が1300ヶ所も点在し氷見系・金蔵系・射水系・下新川系と5系統に分類され、鐺別獅子舞は射水系、仁多獅子舞は砺波系にあたります。これは移民の出身地に該当しています。
昭和56年(1981)の現地調査において仁多獅子舞に関し東砺波郡城端町西明(現南砺市西明)の秋祭りを見学しました。ここでは井波町東町(現南砺市井波東町)との類似性を指摘されます。翌朝、当該地の獅子舞を見たところ、仁多獅子舞関係者らは間違いなく同じものであると述べ収穫を得ました。
昭和56年(1981)の現地調査では、東砺波郡(現南砺市)以外にも氷見市十二町坂津地区を訪れています。ここは鐺別獅子舞ゆかりの地であるとのことで訪問地となりましたが、調査団は舞い方やおはやしに多少の違いがあることを認識しました。また道化役に注目し獅子に酒を振る舞うユーモアに喜んでいます。
「ルーツはどこに!!鐺別・仁多の獅子舞ふるさとをたずねる」(『広報てしかが』1981年11月25日)(PDFファイル:1.9MB)
現在の獅子舞
令和5年(2023)現在、鐺別獅子舞は今もなお奉納が続いています。弟子屈神社の例大祭では宵宮祭や御神輿御渡でその姿を見ることができ、町民をはじめ多くの人に親しまれています。
一方、仁多獅子舞は現在復元活動の最中であり、奉納を目指して取り組んでいます。
令和5年度の弟子屈小学校4年生の社会科では、博学連携の一環としてふるさと歴史館の学芸員により出前授業が行われました。弟子屈で獅子舞が始まった歴史的背景などを楽しく学びました。授業の様子は以下のリンク先にまとめてありますので、ぜひご覧ください。
→弟子屈小学校4年生出前授業「弟子屈町 獅子舞の歴史」(2023年10月30日)
以上のように、風雪に耐えながら故郷を偲んだ御料移民の方々の思いは現在も受け継がれているのです。
小学校への出前授業で獅子舞の歴史を継承する様子


参考文献
<町史>
更科源蔵編『弟子屈町史』弟子屈町、1949
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、1981
弟子屈町史編さん委員会編『弟子屈町史』弟子屈町、2005
<記念誌>
弟子屈町編『弟子屈町100年記念「風・人・大地」弟子屈町、2004
<報告書>
「町指定無形文化財鐺別・仁多獅子舞発祥地に関する事前調査報告」弟子屈町教育委員会、1980年12月
<広報>
「ルーツはどこに!!鐺別・仁多の獅子舞ふるさとをたずねる」(『広報てしかが』1981年11月25日)
- この記事に関するお問い合わせ先
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弟子屈町教育委員会 社会教育課
〒088-3211
北海道川上郡弟子屈町中央2丁目3番2号
電話番号:015-482-2948 ファクス:015-482-2343
更新日:2023年11月15日